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Boots




「一目見ただけで、気に入った靴が在ったとしてよ」


不意に君が言った台詞の最初はこうだ。
僕等は会話とも呼べぬような会話を交わしながら
随分と、長い時間、短い時間、其処に座って居た。

コーヒーは既に酷く冷めて居たけれど
コーヒーが好きな訳では無いし、別に構わなかった。

ストローの先端は指で潰されてしまって
コーラを飲む事すら出来なかったけれど
同じくらい、別に構わなかった。

僕の靴は相変わらず履き潰しかけのブーツで
其れを何時何処で購入したのかさえも忘れかけた
そういうブーツだった。


「一目見ただけで、気に入った靴が在ったとしてよ」


もしもそういう靴を見かけたのならば
やはり自分の物にしたくなるのだろう。

もしも自分の物になったならば
飽きるまで歩いたりするだろう。
自分の物になったのならば。

僕のブーツは黒くて大きくてゴツゴツして
あとは特に特徴も無いけれど
とにかく履いてて楽だった。

履くのが楽な上に、脱ぐのも楽だった。
其れだけの理由で、長い事連れ添ったブーツだ。


「一目見ただけで、気に入った靴が在ったとしてよ」


例えば一目で気に入るような靴を見付けたとしてだよ
今の自分に手持ちの金が無かったらどうするんだろう。
金が無ければ買う事は出来ないな。

指を銜えながら毎日、店頭まで靴を眺めに通うとして
何時かは他の誰かが買ってしまうかもしれないなんて
不安になりながら
盗んじゃおうかなんて考えてみる。

盗むのは勇気が要るな。
其れ成りに勇気が要る。
だけど無駄な勇気だな。

盗んだ靴を履いたって
不釣合いだろうからね。

代価が必要だ。

1万円分の靴には1万円分の代価が必要だ。
5万円分の靴には5万円分の代価が必要だ。

盗む勇気なんかじゃまるで足りないだろう。
理由は簡単さ。
盗む時は自分の事しか頭に無いんだからね。

一目で気に入るような靴を見付けたならば
金が足りないのならば金を貯めるのが
最も健全な手段で在る訳だけれど
そうして金を貯めてる間にも
靴は
自由に他の誰かに買われる権利を持ってる。


「一目見ただけで、気に入った靴が在ったとしてよ」


そうしてね
ようやく金を貯めてね
やっと靴を買おうとした時にだよ
まるでサイズが合わなかったらどうするだろう。

こんなに気に入ってるのに
履く事すら出来ないんだよ。

其れでもやっぱり欲しいのだとして
其の靴を履いて歩く事なんて出来ないのだから
無理にでも手に入れたとして
やっぱり飾ったり眺めたり閉ったりするだろう。

どうだろう。

靴屋には沢山の靴が在るのだけれど
やっぱり其の靴しか認められないだろうか。

もしも他の靴を履いて歩いたなら
やがて新しい靴を見つけるかもしれないが
一目見て気に入るような靴に再び出逢うかもしれないが
其れでもサイズの合わなかった靴を欲しがるのだろうか。

と言うような事を
君が最初の台詞を言った直後に
馬鹿げた遊戯のように考え巡らせていたら
ようやく君が次の台詞を此のように続けた。


「ね、一目見ただけで、気に入った靴が在ったとしてよ。
 貴方が一目見ただけで気に入った靴が在ったとしてよ。
 其れを私も一目見ただけで気に入っちゃったらどうする?」


僕は酷く冷めたコーヒーを一口だけ飲み
其れからほんの少しだけ、笑った。


「其の靴は、きっと僕には少し小さいから、君に譲るよ」


君は少しだけ、本当に少しだけ、嬉しそうに笑った。


「だけど其の靴、君には少し大きすぎるかもしれないね」


そう、少し。

本当に少しで良かった。

本当に少しの違いだったのならば。


「君が
 其の靴を履いて
 僕も一目で気に入った靴を履いて
 何処かを歩いてる姿を想像していくよ。

 其の靴じゃ上手く歩けるか解らないし
 きっと重荷になる事も在るだろうから
 もしも飽きちゃったら捨てちゃいなよ。

 其の時は、僕が拾いに行くから」


僕等はもう其れ以上

声をかける事もせず

何をかわす事も無かった。




一目見ただけで、気に入った靴が在ったとして。




当たり前の事だけれど

其の靴の代わりなんてモノは何処にも無いよ。

どんなに他の場所には素敵な靴が在るとしてもだよ。

だから延々とせめて忘れぬように思い浮べるだけだ。


思い浮べる侭に。

交わす事も触れる事も、無い程に自由に。


そうして僕は

僕が生まれ持って履いた

誰の為に与えられた訳でも

誰の為に選んだ訳でも無い

履き潰しかけの此のブーツで

飽きるまで歩くだろう。


席を立つ瞬間

両足を強く叩き付けると

激しいオトとホコリが舞った。


そうして、再び僕は、歩いた。

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