■英数字
Swap Auto Couture




階段を三段飛ばしで降っていたら、最後の二段目の段差が小さくて派手に転んだ。
歩幅が合わない、という現象は至極単純明快であるのだけれど、我が身に起こる災難は酷く深刻だ。
擦り剥いた膝から滲み始めた血に、唾を付ける。

「何してんの?」

声をかけたのは佳澄。須藤佳澄。
僕は眉間にシワを寄せ、膝小僧を抱えた姿勢のままで「別に」と、佳澄を見上げた。
「別に、じゃないじゃん。どうせ転んだでしょ?」
厭味な台詞で僕の状態を指摘すると、佳澄は僕が転んだ二段目の階段に腰を下した。
「転んでないよ、余所見してただけだ」
「そういうのを世間では、転んだって言うのよ」
「フン」

佳澄は昔から、僕が転ぶ場面には必ず遭遇している気がする。
否、常識的に、統計学的に考えみても、或る一人の人間が、一生の内に何度か転ぶ時に、
それを逃さず必ず見ている人間など、世の中に存在する訳がない。ところが、僕にとっての佳澄はそうだ。
馬鹿みたいな、冗談みたいな、奇跡みたいな話だけれど、僕が転ぶ時、必ず佳澄はそこにいる。
「余所見するのを止めなさいよ。何回転べば学習するの?」
「余所見したから転んだ訳じゃない。転んでないって言っただろ。余所見は、あくまでも余所見」
階段に腰掛ける佳澄のミニ・スカートから、少し日焼けした長い脚が見えた。

「部活は?」
「午前中で終わり」
「呑気だな、お前んトコの陸上部」
「まぁ、アンタんトコの学校でもあるんだけどね」

走る。走る。佳澄は走るのが速い。速いという事は、転ばないという事。転ばない術を身に付けるという事。
「タイム伸びた?」
「まぁね、小学生ん時から走り続けてますから」
「100mを9秒台で走ったら、世界が違って見えるのか?」
「知らないよ、9秒台で走った事ないもん」

よーいドン、でパンと鳴って、バッと走って、スッと磨り抜ける。
佳澄の髪が揺れるのを確認する暇も無く、佳澄はゴール・ラインを通り過ぎて行く。
それほど単純な競技は無いはずなのに、どうして佳澄は先へ、先へと、進んでいくのだろう。

「血、止まった?」
「ああ、まぁね、別に血なんか出てないし」
「出てたじゃん、さっき痛そうに唾付けてるの見たもん」
「出てません。唾を付けたのは、単なる習慣です」
「そんな変な習慣、ある訳ないじゃん」
「あります、我が家の家訓です」

木漏れ日がチラチラと、僕と佳澄の上に夏の太陽を降り注いでいる。
「アイス食う?」
「残念、ダイエット中」
「誰が?」
「アンタの目の前に座ってる人が」
「ああ、お前が」
「絆創膏、貼ってあげようか」

陸上部員は、という訳でも無いだろう。女子は、不思議なモノを、ポケットやカバンの中に忍ばせている。
飴玉だったり、ガムだったり、リップ・クリームだったり、絆創膏だったり。「何で、佳澄は転ばないんだ?」
「は?何で?」
「何で、僕が転ぶ場面ばっか、勝手に見てるんだよ」
「知らないよ」
佳澄は垂れ落ちた髪を耳にかけると、ポケットから取り出した小さな絆創膏を、僕の膝に貼った。
「小さくね?」
「贅沢言わない」
立ち上がる。

蝉の声が聞こえる。今時、普通の町にしては珍しい。
一瞬、自転車に乗った小学生が数人、坂道を滑るように下っていく姿が見えた。
「転ぶぜ」
「転ばないよ、自転車で転んだら危ないもん」
「危ないと転ばないのか?」
「ははっ」

横に並んだ佳澄の顔が、僕の肩越しに見えた。

「背が180cmに伸びたら、世界が違って見えるの?」
「はぁ?」
「世界が違って見えるのかな?」
「知らないよ、180cmになった事ないから」
「でも大分伸びたでしょ」
「そりゃ、小学生の頃に比べたら」

夏休みが始まったけれど、まだ夏らしい事は始まっていない。
花火も、祭も、海も、大量の宿題にさえ、まだ手を付けてない状態なんだから。
「アイス食おうぜ、もしくはジュースを飲むか」
「じゃあ、スプライト」
「なるほど、それは夏っぽくて良いな」

高台からは、僕等の住んでる町が見えた。
清掃工場からは、煙が上がっている。佳澄は小さく欠伸をして、誤魔化すように笑った。
小さな柵を乗り越えようとして、転びそうになって振り向くと、佳澄は慌てて助けようとする訳でも無く、
やっぱり僕を、一番近くで見ていた。

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