■英数字
#FFD700
ハンドルを大きく左に切ると、信号機が頭上を通過していった。 黄色から赤色へ変わろうとしている。だけれど通り過ぎた後では、もう関係ない。 近付く春を教えるように、雪解けの道は濡れている。その上を、タイヤが水を撥ねながら回転していく。 何処かに行こうとしている訳ではない。これは帰り道だ。単なる、家路に着く為の運転だ。
カー・ステレオから音楽は流れない。代わりにAMラジオの下品な笑い声が流れている。
太陽は沈み、国道沿いの街灯が一列に並び、対向車線を走る車の量は少なく、それらが今は夜だと教えているが、
コンビニエンス・ストアの照明は昼間のようだし、暇を持て余した大学生は、安いファミレスのドリンク・バーで、
朝まで過ごすだろう。夜の意味は、それほど重要ではない。
「冷房、効かせても良い?」
助手席から声。 切り揃えた前髪の下にある小さな瞳で、彼女は僕を見ると、そう呟いた。 冷房を効かせるのは構わない。構わないが、今、車内は暑くない。それどころか、少し寒い。
「良いよ、良いけれど、寒くない?」 「そうね、寒いわね、ねぇ、冷房、効かせて良い?」
僕が答える前に、彼女は勝手に手を動かすと、細い指で機械を弄った。 車内に風が吹き、流れ始めた冷気に手を当てると「寒いわね」と言った。
「寒いよね、今は暖房を効かせる方が、身体に優しいと思うのだけれど」 「前、見て、信号、赤」 「あ、」
ブレーキ・ランプ。 タイヤの回転は止まるが、濡れた路面の上で、それは惰性のまま進む。 激突。
「ああ、事故だ」
僕は呟いたが、それは何処にも響かなかった。
深夜の国道は、国道とは言え車の通りが少なく、まるで座礁した船のように、僕の車は歩道に乗り上げ、
電柱に激突して止まった。ヘッド・ライトが、電柱と暗闇を照らしている。
それは音も無く、何故か、不気味だ。
「大丈夫?」助手席から声。 「大丈夫、それより君は?」 「大丈夫」
ああ、どうするべきだ。とりあえず警察に連絡するべきかな。 それともJAFを呼ぶのが先だろうか。単独事故の場合、黙って逃げても解らない気がするけれど。 「さて、どうしようか」携帯電話を取り出して、その画面を、僕は眺めた。
帰り道だったんだ。 今から何処かへ行こうとしていた訳では無い。これは単なる、家路に着く為の運転だった。 「暫く、こうしていましょうか」 彼女は呑気に呟くと、助手席を後に倒し、窓の外を眺めた。
「ねぇ、あれ何座?」 「……どれ?」 「あのね、オリオン座の近くにある、あの明るい星」 「おおいぬ座」
ハザードを点すと、深夜の国道は赤色の点滅に染められた。 人通りは無く、車の通りさえ無い。国道だというのに、誰も僕等の存在にすら気付かない。 事故を起こしてしまった。だけれど何も無い。今すぐ逃げる事も出来るけれど、逃げる気も起きない。
「あれはおおぐま座?」 「詳しいね」 「だとすると、あれが北極星」 「ポラリス」
黄色輝巨星。不動なる者。 只、そこに存在するだけで、必要とされる者。 僕は何者なのか?
解らない。事故を起こして、逃げずに止まっている者。 今頃であれば、彼女と別れて、家に着き、ベッドの中で安らかに眠っていたかもしれない。 安穏と緩慢の毎日だ。何を得る事も無く、何を失う事も無い。AMラジオからは下品な笑い声が流れている。
「何処に行こうと、僕等はポラリスの下にいるんだ」 「何それ?」 「別に」
夜が深く、深く、溶けるように深く沈んでいって、僕等を飲み込んでしまえば良いのに。 星さえも見えなくなって、目指すモノさえ解らなくなったら、僕等の不安も少しは解消されるだろうか。 逃げる事なら何時だって出来る。携帯電話で警察を呼ぶ事だって。何だって。
「何だって出来ると思っているんでしょ。やろうと思えば、何だって出来るって。 だけれど君は、そのどれ一つにも手を付けないで、出来ない事に、わざわざ理由を付けているのよ。 北極星に理由を付ける人がいるなら、それは北極星を必要とする人だわ。動かぬ者を必要とする人だわ」
どうして彼女は、冷房を効かせた? 彼女の声は一切の怒気を含まず、それでいて厭になるほど流暢だった。 彼女は傾斜した座席の奥から、星を眺める視線の先から、何者でも無い僕に向けて、言葉を発した。
「必要だから名前を付けられただけよ。 必要だと信じる人だけが、それに名前を付ける事が許されるのよ。 それ以外の人にとって、名前なんて何の意味も無いし、何の価値も無いわ。 だって多くの人達にとって、北極星なんて、無くたって生活は出来たはずなんだもの。 ねぇ、それで?
何処にも動かぬ君には、一体何が出来るのだろうね?
それとも何も出来ないかしら?」
僕は携帯電話を眺めた。 それからカー・ステレオから流れる下品な笑い声を消した。 静かだった。そのまま飲み込まれるほどに。何も無い何かに飲み込まれるほどに。
静かだった。
「すみません、国道で事故です。 乗用車が電柱に激突しました。はい、単独事故です。怪我人はいません。場所は……」
僕は警察に電話をかけた。 驚くほど冷静な口調で、まるで他人事のように、状況を説明した。 全ての説明を終えて、電話を切った瞬間。 僕は、逃げた。
「ははははは!」
僕は、笑った。 まるで漫画のように、笑いが止まらなかった。 窓を全開にして笑った。凍えるような空気が流れ込んでくる。 白い息が心地よかった。
僕は逃げた。ベコベコの車で逃げた。逃げる事が出来た。 楽しかった。 気が付くと、僕等の頭上から、ポラリスは消えていた。 西の空から、朝日が昇ろうとしていた。
「ねぇ、見て、太陽」
朝方の国道を、ベコベコの車が走っている。 それは、どう見ても事故車だった。 朝日に照らされている。
それは朝日に照らされて、金色に輝いていた。
僕と彼女は、それを眺めて、また笑った。
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