■英数字
Re:green (Roam & domiciliation.)




 冬場に昆虫採集をする奴なんて居ないように、夏場に雪だるまを作る奴なんて居ない。
 僕等の国では海を渡らずに隣の国へは行けず、同じように距離を縮めずに誰かの手を握る事なんて出来ない。
 物事には順序があるし、其れに応じた反応がある。万物における自然の理がそうであるのと同じように、矛盾しながら相反する全ての理だって、多分そうなんだろう。当たり前の事。当たり前に、当たり前の事。
 そして、決して忘れてはいけない事。

 伊緒莉が笑ったから、僕も笑った。




Re:green (Roam & domiciliation.)




 今日は長く伸びた髪も、明日には短くなるだろう。

 僕等は屋上で髪を切り、其れから馴染みの喫茶店へと、気侭な速度で歩いた。例えば天気予報では、今は冬だと伝えるが、僕等の町に雪が降らなければ、其れは冬とは呼び難い。
 伊緒莉は切り揃えたばかりの前髪を細い指で摘まむと「暖かいね」と、笑った。

 住み慣れた僕等の町の、右手には花屋。左手には薬屋。突き当たりに本屋が在って、其の隣に喫茶店。まるで計画的に作られた店並びとは言えないが、誰かの意思に従って、何かは生まれる。複数の意思が重なって町が生まれるように、国が生まれ、世界が生まれる。
 何事も計画通りにはいかない。だけれど生まれた結果が今だ。なので生まれた結果である道を歩き、生まれた結果である本屋を曲がると、やはり生まれた結果である喫茶店が在る事は、何も不思議な事じゃない。そして僕と伊緒莉が普段と同じ席に座り、普段と同じ珈琲と紅茶を注文する事だって、全くまるで――「生まれた結果なのよね」
「ん、何が?」
「赤い自転車、綺麗ね、見て」
 伊緒莉の視線の方向には窓が在り、窓の先には赤く塗られた自転車が在った。
 恐らく本屋に立ち寄った、高校生か大学生の自転車だろう。今頃、店内で立ち読みでもしているのではなかろうか。其れとも参考書を抱えて、本棚の前に立ち尽くしていたり。受験生ならば手遅れだろうが、何かを学ぶ気持ちは尊い。ところが僕等は、何時も間違える。
「学ぶのと、感じるのは違う」
「何の話?」
今度は伊緒莉が疑問符を付けたので、僕は短く笑って紅茶を飲んだ。

「誰もが今、自分達は歴史の先端に立っていると信じている。歴史というのは日本史だとか世界史だけの話では無くて、喩えるなら、時間。僕等は時間の先端にいると信じて止まないよ」
「時間?」
「そう、時間。絶える事無く、流れ続けた時間。僕等の知らない時間。僕等の知ってる時間。其のどちらもが、初めから本日まで、一秒も休む事無く、流れ続けてきたという訳」
「初めから本日まで」
「僕等の本日が、其の先端に在ると信じて止まないよ」
「違うの?」
「さてね、どうだろう」

 窓の向こうで本屋の扉が手動的に開くと、濃紺の背広を着た中年男性が現れた。彼の手には分厚い紙袋が握られており、其れが今買ったばかりの本を包んでいるという事は、世界中の誰が見ても明らかだった。彼は片手では重そうな紙袋を自転車のカゴに入れると――赤い自転車は彼の所有物だった――背広のポケットから鍵を取り出し、手際よく開錠し、左足を蹴り出す様にサドルに腰を掛けると、颯爽と本屋を去って行った。

「自転車は赤じゃない方が良いな」

 伊緒莉が呟くのを聞いて、また僕は笑った。「じゃあ何色が良い?」
 珈琲が表面的に揺れるカップを手にしたまま、伊緒莉は暫し無言になり、眉間に皺を寄せた。其れは答を知っているのに、何度も解答用紙を確認するような神経質な仕草で、其れがまた僕を面白おかしくさせた。
「感情的に考えるなら、好きな色はあるわね。だけれど理性的に考えるなら……」
 自転車の色を考える話に感情と理性を持ち出すと、伊緒莉は珈琲を静かに口に運んだ。
「どちらを選んでも良い。だけれど其れは正解では無い。だって僕等は常に……」

 先端に居る訳では無い。

 只、今の途上に居る。連続的に訪れる今の途上で、右往左往している。
 只、其れだけの存在で在るべきだし、其れ以上の存在になれる訳でも無いと思う。
 誰かと誰かの意思が重なり、ほとんど偶然のような今が作られて往く。住み慣れた僕等の町の、右手には花屋。左手には薬屋。突き当たりに本屋が在って、其の隣に喫茶店。僕等は僕等の意思で選択し、また決断して往く。放浪しながら、また定住する。
 喫茶店の置き時計が、午後2時を告げる短い鐘の音を、また響かせた。

「そろそろ行こうか?」

 伝票を手に取って、僕と伊緒莉は席を立った。
 会計を済ませて店を出ると、冷たい風に混ざる、暖かい風が吹いた。
 今年は雪が少なくて、全くまるで冬らしくない細い道を、やはり僕等は歩いた。

「前髪、切りすぎたかな?」

「ん、似合ってるよ」

 冬場に昆虫採集をする奴なんて居ないように、夏場に雪だるまを作る奴なんて居ない。
 僕等の国では海を渡らずに隣の国へは行けず、同じように距離を縮めずに誰かの手を握る事なんて出来ない。物事には順序があるし、其れに応じた反応がある。万物における自然の理がそうであるのと同じように、矛盾しながら相反する全ての理だって、多分そうなんだろう。当たり前の事。当たり前に、当たり前の事。そして、決して忘れてはいけない事。

「帰ったら何する?」
「ん、洗濯」
「はは」

 花屋の前を通り過ぎる瞬間に、小さな風が、僕等の横を吹き抜けて行った。
 よく見ると其れは、自転車に乗った小さな女の子だった。
 消え往く後姿を眺めて、伊緒莉は言った。

「あの色が好き」

 再び生まれる全ての色へ。
 再び終わる全ての色へ。

 其の全ての先端の途上へ。
 其の全ての今の途上へ。


 僕等は歩いて往く。


 伊緒莉が笑ったから、僕も笑った。

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