■英数字
Fish drive sadistic over.




「もう僕は疲れてしまった。だから全てを終わらせようと思う」

 浅く椅子に座り、まるで独り言のような独り言を呟いて、僕は天井を見上げた。夜明け前。青い。薄暗い。呟いたと表現するよりは、打ち込んだと表現するのが的確だし、吐き出したと言い換えても良い。
 とにかく一点。白光モニター。文字列。独り言のような独り言は真実、独り言では無く、僕の部屋には水槽が在り、其処では一匹、カラシンが尾びれを揺らして泳いでいる。
 嗚呼、この部屋で小説を書くのは、是で最後にしよう。そうしよう。

「引越しが決まっているからね」

 カラシンを眺めながら、僕は言った。カラシンに話しかけた訳では無い。艶かしい身体をくねらせるカラシンは、やはり単なるカラシンであって、他の何者でも無い。カラシンに話しかけたところで会話は成立しないのだから、是はカラシンに向けた台詞では無い。部屋の隅に何個かのダンボール箱が畳んだまま置いてある。部屋の片付けは特に進んでいる訳でも無く乱雑で、其れは其のまま僕の頭の中と同じだ。笑える程に整理整頓の苦手な脳内だ。だけれど誰にも手を付けないで欲しい。僕なりに把握した置き場所というのがあって、誰かに触れられた瞬間、其れは呆気なく崩れてしまうだろう。

「此処は君の場所だった。そして是からも、そうであると良かった」

 ブラインド・ケープ・カラシンには、生まれた時から目が無い。光というモノを知らない。初めから知らなければ、光を求める事など無いのだろうか。そんな事は無い。僕等はどうしても、知っている事を知っている気になって、知らない事を知らない気になる。明るければ光、暗ければ闇、其の程度の認識で、簡単に絶望した気分に浸っている。
 カラシンの闇は、光には左右されない。同じくカラシンの光も、闇には左右されない。
 彼等と彼女等の光と闇が、僕等とは別の部分で認識されている以上、彼等と彼女等の希望と絶望も、まるで別の部分で認識されていると考えるべきだろう。其れは例えば温度、質感、様相によって変化し、察知されるべきなのかもしれないし、もしかしたら全く別の部分で感知するべきモノなのかもしれない。とにかく、少なくとも、カラシン達は希望や絶望を嘆かない。(否、嘆くという感情が欠落しているのかもしれないが)

「お前が空を飛べたなら、最初に何処に行くんだい?」

 水中を自由に泳ぐカラシンさえ、空を飛べる訳では無い。上空を華麗に通り過ぎるイヌワシが、海を泳げる訳では無いように。巨万の富を得た者が、必ずしも心穏やかな毎日を暮らせる訳では無いように。日雇い労働者が高級外車を乗り回す夢を見るように。真白なキャンパスに自由な色を塗る者が、来月の家賃に頭を悩ませる頃、夢を無くした中流所得者が、其の絵に救われている。誰かは歌を唄っている。誰かは歌を聴いている。
 要するに、早く気付いて欲しい。僕等は、

「無い物ねだりなんだ、そして」

 其れが世界を繋げている。
 欠落した僕等の欲望が、僕等自身を繋げている。
 満たされた瞬間に、僕は次の理由を探すだろう。だとしたら初めから、僕等が満たされる事なんて無い。何故、戦争は消えず、内紛は収まらず、殺人事件の報道は絶えず、病の進行は止まらない。何故、今より少しでも幸せになりたいと願う。大した絶望なんかじゃないのさ。僕等の絶望なんて。だから早く知って欲しい。悲しい理由を穿り返す無意味さと、優しい理由を見付け出す価値をだよ。もう僕は疲れてしまった。だから全てを終わらせようと思う。だけれど全てを終わらせる事なんて不可能だ。何故ならば、

「僕は空を飛んでみたいからな」

 嗚呼、何と無謀な欲望だ。其れでも絶望に暮れるより、何と意義のある嘘だ。
 「近頃の若い者は……」とはエジプトの壁画に刻まれた言葉。 何と文明発祥の頃から現在に至るまで、僕等は同じ行為を繰り返している。其の度に僕等は、大人だとか、常識だとかに呆れられながら、世界を変えてきた訳だ。其れが正しい事だなんて少しも思わない。其れで歪んでしまった世界が至る所に現代、姿を現している。ところが一点。とても大切な一点。

「僕等は止まる事が出来なかった。其れがどれほど素晴らしい世界でも」

 今より、ほんの少しでもと願うから、何時の時代も安定せず、時に無謀な変化を経て、破壊さえ繰り返される。誰かが幸せになり、誰かが不幸せになる。虐げられ、蔑まれ、やがて其の逆転が起こる。誰かが信じた事を、皆が正義だと思う。其の逆転が起こる。相転移性の変化。安定。カオス。コスモス。秩序と無秩序に彩られながら、好き勝手な事を言ってる。其れが僕等の真実だ。要するに、ならば僕は、

「今のままではいられない。さようなら、僕のイリーナ」

 カラシンが泳ぐ水槽に手を当て、僕は呟いた。
 目の無いカラシンの名前は、イリーナだったか、どうだったか。

 瞬間的に忘れてしまう、全ての事柄へ。
 瞬間的に思い出す、忘れ果てたはずの、全ての事柄へ。

 宙空を飛べ。宙空を。
 全てを終わらせた瞬間に、再び全ては始まろうとする。
 蠢いている。
 まるで真空状態の途上で、其れだけが静かに、今も蠢いている。

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