■英数字
THE GREEN DAYS




恋人は一眼レフを、其の掌で固定した。

風の色は緑。
一昨日買ったばかりの服と、履き慣れたスニーカー。
玄関の扉を開くと、恋人は目を閉じて、わざと大袈裟な深呼吸をしてみせた。

「春だね」
「春かな」
「春の匂い」

そうだね、と応える前に、再び大きく深呼吸。
色付き始めた花を見て、僕等は其れを、春だと知った。
春の匂いがあるように、春の色があって、春の音があって、春の予感がある。
春の予感があるとして、例えば其れは、僕の隣で恋人が、大きく深呼吸するという事。

「ああ、春の匂い」
「本当だ」
「ほんと? 解るの? 春の匂い?」
「解るよ」

ほんの少し前まで、僕は其の匂いが大嫌いだった。
だって其れは無造作に浮遊する風船に似て、何かを失う予感にも似ていた。
飛んで、消えて、気付いたら、音も無く独りぼっちになるような匂い。

「其れが春の匂いだよ」
「どれが?」
「どれだっけな」
「桜の見える公園、ある?」

細い車道を銀色の乗用車が走り、続けて小型トラックが窮屈そうに通り抜けた。
公園ならば沢山あるが、桜の見える公園は少なく、其の中でも景観の良い公園となると、
同級生の中から有名人を探そうとするほど少なく、しかも僕等が其処に辿り着けるのなら、

「ほとんど奇跡だな」

恋人は首からブラ下げた一眼レフを、手持ち無沙汰に肩で揺らした。
僕は恋人の手を少し強引に握った。
恋人の足が一瞬よろけて、其れを見て、僕は笑った。
僕が笑うと恋人は、やっぱり眉間にシワを寄せ、抗議するように言った。

「ね、公園は?」

僕と恋人は同じ速度で歩き、また出来得るだけ同じ歩幅で歩くように努めた。
其れは、僕が「自分自身では無い誰か」と何かを共有する為に必要な努力だったし、
同じように、恋人が「彼女自身では無い誰か」と何かを共有する為に必要な努力だった。
そして、もしも出来得るだけ長い期間、僕等が何かを共有し続けたいと願うのならば。
――大切なモノが何なのかを、知っているか?

「知ってるよ」

風の色は緑。
一昨日買ったばかりの服と、履き慣れたスニーカー。
信号機が赤から青に変わると、僕は目を閉じて、わざと大袈裟な深呼吸をしてみせた。

「公園?」
「ああ、そうだな、公園」
「桜、咲いてる?」
「どうだろな」
「何それ」

只、知っている。
素敵な公園が在る事を、知っている。
桜が咲いているかどうかなんて、知らないし、解らない。
何故ならば、其れは運任せによく似た行為なのかもしれないよ。

「塔が在るな」
「塔?」
「そ、古い塔」

深い森の中の隠された公園に、一本の古い塔が建っている。
僕は随分と長い間、あの部屋の窓から見える、其の塔を眺めていた。
其れは毎晩、暗闇と泥濘の奥底で、八個の電灯を点滅させながら、鈍く輝き続ける、

「鉄の塔だった」

あの塔の正体を知りたいと、僕は願っていた。
あの部屋から出ようとしなかった僕が、唯一望んでいた夢だった。
遠く、幼く、儚く、其れでいて、何時でも容易く手に入れられるはずの、夢だった。

「行きたいの?」
「桜は咲いてないかもしれないけどね」
「春の匂いに色を付けるとしたら、何色が似合うと思う?」

恋人が朝早くに弁当を作っていた事を僕は知っているし、
大きな水筒に冷たい麦茶を注いでいた事も知っているし、
数日前に新しいフィルムを買った事も、よく知っていた。

僕等は小さな予感に従って、新しい季節を受け入れながら、普通に暮らしている。
もしも僕等が特別な出来事に出逢えたならば、目や耳や心に焼き付いて、
ずっと忘れる事さえ無いのかもしれないけれど。

普通の出来事を、ずっと忘れずに居ようと願う気持ちを、忘れずに居たいんだ。

「どんな写真、撮るの?」
「どんなかな」
「ん?」
「桜と、塔と、君を」

僕は笑った。

「ほとんど奇跡だな」

もしも望んだモノ全てが一枚の写真に収まるならば、そんな奇跡はそう無いだろう。
同級生の中から有名人を探そうとするほど難しく、しかも僕等が其処に辿り着けるのなら。
太陽が商店街の小さなビルの上から顔を出して、芝生のタンポポに似ていた。
其れから、無造作に浮遊する、けれど決して割れる事の無い、風船にも似ていた。
細い車道を小型トラックが窮屈そうに通り、続けて銀色の乗用車が走り抜けた。

「風船の色」
「何の話?」
「さっきの質問の答え」
「何の話?」
「春の匂いに色を付けるとしたら、何色が似合うと思う?」

風の色は緑。
一昨日買ったばかりの服と、履き慣れたスニーカー。
公園に続く緩い丘を越えると、僕等は目を閉じて、わざと大袈裟な深呼吸をしてみせた。

「ははっ」

見えた風景。
瞬間、恋人は声を出して笑った。
愉快そうに笑った。
其れから。











恋人は一眼レフを、其の掌で固定した。

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word by orange/photo by midori

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