■英数字
smoking of yellow. talking to mine.




弱酸性の嘘だ。

アンズが此処に着いた時、最初にアンズは一輪の、小さな花を手に持っていた。
恐らく道端で摘んだのだろう、白く濡れた、小さな花だった。
其の花の白色は、彼女の傘の鮮明な(其れでいて人工的な)赤色に、よく馴染んだ。

「火星に咲いた花よ」

窓の外は雨。
濡れた路面を水色の古いラシーンが通過して往く。
撥ねた雨水の勢いは孱弱で、しかし鮮やかに汚れている。
彼女の嘘は本当に嘘だって事実を、何時だって僕は知っていた。

「火星に寄ってから来たの?」

もしも、ほんの少しでも真実に触れる部分があるならば、誰だって騙されるはずだ。
彼女の嘘は完全なる嘘のまま、不完全な嘘として存在しただろう。
ところが彼女は演技的に、薄く笑って言った。

「本当はフォボスに寄ってから来たの」

嘘は、嘘のままで溶けるしかないのだ。
彼女の嘘には悪気が無くて、全くまるで隙が無く、絶対的だった。
其れは麻糸のシャツみたいに、僕によく馴染んだ。

「フォボスにも花は咲く?」

だからこそ、其れが違和感になる。
嘘ってのは普通、もっとザラリと画質が荒くて、雑音だらけで、舌触りが悪いモノだ。
其れを誤魔化す為にまた、僕等は煙草を吸い込んで、独善的な自分語りに夢中になった。

「咲くわよ、君が笑うなら」

古いラシーンは、古かった。
しかし、よく手入れされているように見えた。
もっとも一瞬だったので、よく見てはいないのだけれど。

其れでも、そんな気がした、という事実が、僕の中に存在して、
要するに、それは、

「嘘のような真実だ」

彼女は相対する席に座ると、
椅子の脇に、濡れたままの赤色の傘を置き、
木製のテーブルの上に、濡れたままの白色の花を置き、
其の花の隣には、ポケットから取り出した、黄色い箱の煙草を置いた。

「笑える?」

黒色のタイトなミニ・スカートの店員を呼び、
至極事務的な口調でホット・コーヒーを一杯注文すると、
彼女は煙草を一本取り出し、火を点けて吸い込んだので、僕は言った。

「火星に咲いた花を、最後に君は、どうする気?」

そうね、と言いかけて煙を吐き出し、窓の外を眺めると、
何かを思い付いたように、アンズは瞬間、口元だけで楽しそうに笑った。

「また遅刻の言い訳に使うわ」

アンズが吐いた煙は天井を浮遊し、其の頂点で小さく円を描き、消えた。
其れが最後に見せられた、彼女の唯一の真実だった。
彼女が消えた後、残されたのは――。

さて、この可も無く不可も無い会話を、
この出来事を、きっと僕は、すぐに忘れるだろう。
其れほど全ての出来事は、移ろい易く、消え易く、溶け易い。

事実、アンズの花ならば、すぐに枯れた。
火星でも、地球でも。
そうして弱酸性の嘘が、誰もが気付かぬ間に、またしても真実に摩り替わっている。

――彼女が消えた後、残されたのは、箱。
黄色い煙草の箱。
驚くほど明確に、其れだけが事実で、其れだけが現実だった。

アンズは僕のモノだった。
しかしながら、僕の為のモノでは無かった。
アンズは何処まで行ったとしても、アンズの為のモノだった。

美しい白色の花は、呆気なく枯れた。
代わりに何の生産性も無い、汚れた黄色い煙草の箱だけ残った。

だから真実は、真実のままで生きるしかないのだ。
僕の真実には愛想が無くて、全くまるで隙だらけで、相対的だった。
其れはセロファン性のシャツのように粘着質で、全く僕に馴染まなかった。

手を伸ばし、目を瞑り、唇を縛り、歯軋りをする。
何も届かない。聴こえない。
だから瞼を開く。

天井、僕は虚空を見詰める。
煙が消えた場所。
其の一点。

煙草で汚れた黄色い肺と、煙草で汚れた黄色い空を。
啄ばむ欲求だけを啄ばみ、忘れる欲求だけを忘れる。

「アンズが此処に着いた時、最初にアンズは一輪の……」

火星を見付けられるか?
別にフォボスだって、何なら地球だって良い。
何処かに咲いた花を何気なく摘めるなら、何処に居たって幸せだよ。
晴れの日も、雨の日も。


(咲くわよ、君が笑うなら)


弱酸性の嘘だ。
そして感覚だけが残る。

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