■英数字行
Fe(=10)




例えば、二十歳の頃。
頭ん中でこねくり回した事柄を友達の前で披露して、
「へぇ、そんなに色々考えてるんだ……」なんて感心されて。
だけど歳取った今、同じ事柄を当時の自分と同じ年頃の子の前で話したら、
それって単なるオヤジの説教なんだよね。

僕は、その答を知ってるよ。
君は、その問の前で立ち止まっている。
だけれど教える事は出来ないし、教えたところで理解はされない。

自分で気付かなければ答にはならないし、
その答さえ、常に変化している。今も変化している。
そして世の中は、元々ずっとそういう風に回ってきたのだとも思う。

自分の考えを語るということを、気が付けばしなくなった。
何も考えなくなった訳じゃないが、わざわざ人前で語るほどの事は少ない。

自分が何を考え、何に怒り、何に笑い、何に厭きれたのかを、誰かに知って欲しかった。
少なくとも僕は、ほんの数年前まで、そうだった。
しかし自分が世界を救える訳では無い事や、世界を変えられる訳では無い事に、
僕等は何となく気付いていくんじゃないかな。何となくだよ、本当に。
諦めでも無く、只、何となく気付くんだ。

ジョイサウンドとダムの違いなんて聞かれても、僕には関係ない。
ジャイアンツとタイガースのどちらが好きかと聞かれても、僕には関係ない。
サブ・カルチャーの素晴らしさを力説する奴ほど信用ならないモノは無いし、
かといってオリコン・チャートを追いかける奴とは友達になりたいと思わない。

肥大した自我が可愛いのは二十五歳までだ。
知ってるよ。あとは単なる中年予備軍の成熟できない戯言に過ぎない。
同級生だった女達は、本日も田舎町のカラオケで女子会を開き、憂さを晴らしている。

僕に出来る事は何だったのかって、今でも考えるよ。
それを今やれ、今すぐに、とも思う。ところが僕には出来ない。
出来るはずだと思いながら、結局は何もしないし、結果、何も出来ない。

偉そうに格言めいた愚痴を溜め込むばかりで、僕に出来る事といえば、
同級生だった女達のルームに、色鮮やかなカクテルと、ポテトを運ぶ事くらいだ。
カシスオレンジ・ワン。ファジーネーブル・ツー。フライドポテト・オーケー?

「今日、早上がりしたい」

ピーチ・リキュールにオレンジ・ジュースを注ぎながら、鳴島音が言った。

「何で」

軽く三周、ステア。
安いオレンジ・ジュースは、色合いで判る。
音が氷を放り込むと、オレンジ色に乱暴な音色が混ざった。

「明日、ライブ打ち合わせ」
「うん」
「ポテト、そろそろ揚がる」
「うん」

グラスを三杯、トレイに載せ、片手で持ち上げる。

今ならば出来る事は、今だから出来る事だ。
パスワード染みた日常を積み重ねている内に、僕は正しさとは何かを知った。
だけれど僕の知った正しさが、全てにとって本当の正しさなのかは知らない。
僕が知ったのは「このパスワードで扉が開く」という事実だけだ。

たまたま開いてしまった扉を眺めて、それが正しいと信じる姿は滑稽では無いのか。
偶然、扉が開いた部屋に堂々と入り込み、さも正解者らしき顔を自堕落にぶら下げ、
不正解を積み重ねる社会人を発見するのに、さほど苦労はしない。

音は年下の、バイトの先輩だ。

「夢で食ってくの、大変なんだよ」
「へぇ、何が」
「食えた瞬間から、それが夢じゃ無くなるのが」

言葉使いは粗雑だが、外見上は誰が見ても女だ。
食えた瞬間と言うが、正に今バイトをしているくらいで、夢で食えている訳ではない。
ライブの打ち合わせと言うけれど、何のライブなのかは訊いた事が無いので知らない。
恐らく鳴島音という名前からして、音楽だとは思うが知らない。

賑やかな色のカクテルの横に、揚げたてのフライド・ポテトを乗せる。
伝票の半券。19号室。同級生の女達のルーム。
「何やってんの、早く」
音に急かされ、僕は歩いた。

迷路のような通路にはとっくに慣れたし、
左右の扉から漏れてくる、見知らぬ下品な爆音にも慣れた。
防音対策? まず自分の耳と自分のボリューム調整力に文句を言えよ。

19号室の前。扉。聴こえてくるのは四、五年前の流行曲。
曲名は知らない。歌ってる奴の名前は忘れた。サビの歌詞だけ覚えてる。
確か、「何度でも〜叶うさ〜夢は〜」――女達の合唱が聞こえて、僕は扉を開けた。

「失礼します」

ルームは薄暗く、爆音に紛れて僕の声は聞こえない。
女達は歌とモニター画面に夢中で、僕の存在にさえ気付かない。
サビが近付き、また合唱が始まった。「何度でも〜叶うさ〜」――夢が?

くだらない。
トレイを持ったまま軽く膝を折り、
枝豆の散乱したテーブルの隅に、新しいカクテル・グラスを置く。

「遅い」

騒音の隙間から、放り投げるような声。

「え?」
「もっと早くオーダー持ってきてよ」
「あ、」

同級生は、相手が僕と気付かぬ様子で、酒に酔った顔を近付けた。
暗がりに点滅するカラオケPV映像。聴衆は意味も無くタオルを回転させる。
アルコール臭い息。――「はい、申し訳ございません」
空のグラスを回収しながら、小さく唇を噛む。

「カシオレ、すぐ持ってきて、どうせ遅いから」
「飲み放題はグラス交換――」
「飲むから」

立ち上がり、頭を下げて部屋を出る。
反論? 無いな。高校生のアルバイトじゃあるまいし。
理不尽な客からの要望に、いちいち腹を立てるなんて馬鹿の作法だ。

彼女達の名前は何と言ったかな。
同級生という事は覚えているけれど、名前は知らない。
多分、忘れてしまった。初めから覚えてなど居なかったのかもしれない。

「ポテト、そろそろ揚がるって言ったじゃん」

厨房に戻ると不機嫌そうな声で、音が言った。

「ごめん、先にカシオレ」
「何それ」
「19号室の追加オーダー」
「ポテトは?」

焦げたポテトの山を乱暴にゴミ箱に棄てながら、音は僕を見た。
僕は目を合わせなかった。カシス・リキュールにオレンジ・ジュースを注いだ。
真っ赤に透き通っていた赤が、オレンジ色に侵食されていた。僕は只、それを見ていた。

「言いたい事あんならさ、言いなよ」

グラスに氷を放り込み、軽くステアした。
文句? 反論? 無いな。高校生じゃあるまいし。
思い通りに進まない物事に、いちいち腹を立てるなんて馬鹿の作法だ。

「君は棘を失くしたのだな。
 良い事なのか、悪い事なのか、僕には解らない。
 他人を傷付けるだけの棘ならば、早い内に失くすべきだ」

音が言った。

「しかし忘れないように刻み付けたかった記憶は、
 あの後悔は、どう処理するのだ」

リズムが聴こえるような言葉だった。

「綿毛のように飛ばせば良いさ」と、音は言った。

「何それ」
「別に、何だっていいじゃん」

音は冷凍されたままのポテトを高温の油の中に入れた。
瞬間的に溶けた温度は泡となり、油の中で跳ねた。
僕は新たなカシス・オレンジをトレイに乗せた。
あまり綺麗な赤色では無いなと思った。

記憶や後悔を(それに伴う責任を)僕達は忘れるだろう。
多分、忘れてしまった。初めから覚えてなど居なかったのかもしれない。
しかし、まだ動いている、胸の奥で。
動く。蠢く。囁く。

また静かに、此処で騒ぐ。

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