■あ行
足跡の無い女




彼女が道を歩いても、音は鳴らない。足跡も付かない。

僕達はアスファルトによって丁寧に舗装された、
画一的な道を歩く訳で、泥水の混ざった土の上を歩く訳では無いから、
実際のところ、自分達が歩いてきた道に足跡なんて付いたりはしない。

例えば濡れた靴がアスファルトに跡を残したところで、数分後には消えている。
僕達は自分の足跡が、自分の歩いてきた道程に残るなんてこと、意識してきた訳じゃない。
只、僕が気に入らないのは、彼女が彼女でありながら、彼女じゃなくなってしまうことだよ。
要するに、

「昨日の夜、何食べた?」

「え、」

笠原みく子の言葉に、僕は顔を上げた。
昼下がりのマックス・ドックスは、本日も閑散としている。
照焼きチキンとレタスのハンバーガー。それから辛口のフライド・ポテト。
コーラを飲みたいところだけれど、あえて選ばず、アイス・ティーを飲むように心がけている。
意味なんてないのだけれど、コーラよりは健康的なのではないかと勝手に判断している。
僕は健康的に生きたいのだ。それで、

「昨日の夜、何食べた?」

「忘れた」

それが一番の健康法だ。
昨日のメニューを書き留めながら生きるよりも。
全ての記憶を後生大切に守りながら生きるだなんて、馬鹿げている。
僕達は――少なくとも僕は、忘れながら生きるだろう。忘れたことさえ忘れるだろう。
何とも言えぬ胃の奥にぶら下がった違和感を抱え、その感覚にさえ、やがて慣れるだろう。

「あ、そ」

笠原みく子は短く言うと、僕のフライド・ポテトを食べた。
僕が今日、此処でポテトを食べたことを、僕は忘れるだろう。
それを笠原みく子が勝手に食べたことさえ、どうせ忘れてしまう。
それと同じように、

「彼女が、君を好きだったこと、忘れてしまうと思う?」

「え、」

彼女は、どうして僕の元から離れてしまったのだろう?
足跡さえ消して、初めから何も無かったみたいに、彼女は消えた。
彼女には何人かの友人がいて、その中の一人が今、僕の目の前に座っている。
笠原みく子はオレンジ色の長い髪を、細い人差し指で巻くようにして、頬杖を突いた。

「君が、彼女を好きだったこと、忘れてしまうと思う?」

「はっは」

忘れるさ。
完全に、すっからかんに忘れて、忘れたことを忘れる。
何とも言えぬ胃の奥にぶら下がった違和感を抱え、その感覚にさえ、やがて慣れるだろう。
全ての痛みを無かったことにして、笑いながら暮らすだろう。
そして、

「忘れたことを、思い出すよ」

彼女が道を歩いても、音は鳴らない。足跡も付かない。

僕達はアスファルトによって丁寧に舗装された、
画一的な道を歩く訳で、泥水の混ざった土の上を歩く訳では無いから、
実際のところ、自分達が歩いてきた道に足跡なんて付いたりはしない。

僕は此処を歩いたし、彼女は此処を歩いた。
僕の隣を歩いていた。
其れだけだ。

例えばマックス・ドックスの前に広がる表通りを。
野良猫の多い商店街の路地裏を。
国道を渡る歩道橋を。
僕の部屋を。

「僕達は、一緒だったんだ」

笠原みく子はバニラ・シェイクを飲み干すと、
自分の足元に置いたギター・ケースを手に取った。

「知ってるよ、そんなこと」

言いながら立ち上がり、少し眩しそうな目をした。
僕が本日、笠原みく子を呼び出して、何を言いたかったのかは解らない。
失恋の傷を癒して欲しかった訳ではない。只、僕は誰かに聞いて欲しかったのだ。
彼女の話を、出来れば、彼女をよく知っている人物に。

「まだ少し早いなぁ」

笠原みく子は携帯電話を(というよりは時刻を)眺めながら独り言のように呟いた。
何時の間にか、外は小雨が降っている。人通りは少なく、足音も聞こえない。
何も聞こえない。
――と思ったら、フライド・ポテトが揚がったことを告げる、独特の機械音が聞こえた。

「誰も居ない訳じゃないか」

小さな身体では重そうなギターケースを片手で持ち上げると、
僕の方を振り向きもせずに、笠原みく子は出口に向かって歩き始めた。

「何処行くんだよ?」

座ったまま問いかける僕に、笠原みく子は言った。

「歌いに行くんだよ」

例えば濡れた靴がアスファルトに跡を残したところで、数分後には消えている。
僕達は自分の足跡が、自分の歩いてきた道程に残るなんてこと、意識してきた訳じゃない。
只、僕が気に入らないのは、彼女が彼女でありながら、彼女じゃなくなってしまうことだよ。

――僕の知らない場所で、僕の知らない彼女になってしまうことだよ。

僕と笠原みく子は数分歩き、やがて大きな広場に辿り着いた。
笠原みく子はギターを弾き、大きな広場の中央で、静かに歌い始めた。
広場には誰も居なかった。誰も聴いては居なかった。それでも静かに歌い続けた。
小雨だけが降り続き、笠原みく子の声とギターの音に混ざった。

僕は、何なのだろうな、只、きっと悲しいのだと思う。
僕の知っている彼女が、知っていた彼女が、僕の知らない彼女になってしまうことが。
僕が彼女を忘れてしまう予感を抱えているように、やがて彼女が僕を忘れてしまうことが。

そんなの別に大したことじゃない、と僕は念じている。
昨日の夜に食べた何かを忘れるくらい、そんなに難しいことじゃない、と思っている。
忘れたフリをしていれば、一週間も経てば、やがて本当に忘れてしまうことを知っている。
本当は覚えているのに、すっかり忘れたフリをしている。

本当は、まだ覚えている。まだまだ覚えている。全てを覚えている。
覚えていることを忘れ、忘れたことを忘れ、やがて思い出したくても思い出せなくなる。
そうして気付くんだ。

僕達の姿、色、声、呼吸、挙動、歩き方、食べ方、話し方、
読み方、怒り方、泣き方、笑い方、其れから未熟な生き方。
僕達が見ているのは――見ていたのは、きっと其の全てなんだよ。
簡単に忘れてしまう訳じゃ無いんだよ。

笠原みく子の歌が、大きな広場の片隅に響いた。
雨は止まなかった。しかし歌えないほどではなくて、笠原みく子は歌い続けた。
其の呼吸の、吸い込む一息の、吐き出す一音の、全ての瞬間を、僕は忘れてしまうだろう。
そもそも初めから覚えていないのかもしれない。

其れでも、笠原みく子が今、此処で歌っていることを、僕は感じているだろう。
ほとんど同じ理屈で。
此処から先、彼女が道を歩いても、音は鳴らない。足跡も付かない。僕は何も気付かない。
其れでも、彼女が今、何処かで日々を暮らしていることを、僕は願うだろう。

「忘れたくなんか、無いんだよ」

笠原みく子が最後に一弦を弾くと、歌は終わった。

雨の止まない広場には、相変わらず誰も居なかった。
否、一応、目の前には僕が居て、隅の方には数匹の野良猫も居た。
笠原みく子は袖で濡れた顔を拭ったけれど、雨なのか汗なのかよく解らなかった。
小さく笑って、僕に言った。

「昨日の夜、何食べた?」

僕も合わせて、短く笑った。

「カレーライス」

どちらが健全なのか解らない。
しかし残念ながら、今はまだ覚えている。
彼女の足跡が、もう僕には見えなくなろうとも。

「はははっ」

只、僕達は笑い、まだ雨の止まない広場に、佇んでいた。

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