太い線を描く。

続いて細い線。

其れだけで純白の空間に距離が生まれる。



柔らかい曲線を描く。

続いて幾重もの斜線。

其れだけで純白の空間に物質が生まれる。



よく手入れされた髪の毛を描く。

続いて笑うと細くなる静かな瞳。

其れだけで純白の空間に生命が生まれる。



自由。



自由気侭に暮らしていた。

一日分の疲労と雑音の連れ方は

今でもまだよく解ってはいなかった。



住み慣れた街から少し離れた土地の

住み慣れた街より少し栄えた繁華街。

其処で毎晩、絵を描くのが、男の生活だった。



少し前までの男は

まるで仕事をしない生活を続けていた。

此処とは違う街で。



絵を描くのは、昔から好きだった。

男の母親が絵を描くのが好きな人だったので

男が絵に興味を持つのも実に自然な事だった。



母親は

例えば目前の風景を

例えば空や雲や花を

純白の紙の上に描き写していった。



まだ幼児で在った男の前で母親は

純白の紙の上に次々と絵を描いた。



描き終えると母親は楽しそうに笑った。



だから男も至極自然に鉛筆を握るようになった。



太い線を描く。

続いて細い線。



太い線を描く。

続いて細い線。








絵を描いて笑った事は、まだ無い。












第四話 『絵』










男は似顔絵を描いていた。

少し栄えた繁華街の片隅。

稀に物好きな人達が

男に似顔絵を描く事を依頼してくる。

何と言う事も無く男は依頼に応じた。



男の前にまだ若い母親と息子。

息子の絵が欲しい様子だった。



心を込める必要など無い。

元々知りもしない親子だ。

物好きな母親が息子を男の前に座らせて

何か話し掛けながら楽しそうに笑っている。



楽しそうに笑う必要など無い。

是は純粋に単純なる模写だ。

知りもしない子供の模写だ。

心を込める必要など無いし

心を込める術もよく知らない。



只、出来るだけ丁寧に描き上げた。



良い出来だ。

似顔絵を手渡すと母親は嬉しそうに笑った。

其れから母親は男に似顔絵の代金を手渡す。

母親はすぐに息子に似顔絵を見せた。

息子は近くの玩具屋を見ていた。



コンビニへ向かった。

並べた見本や売物の絵は其の侭にしておいた。

別に盗まれる程の絵では無いと男は感じていた。



コンビニへ向かう途中の路地で

ギターを弾きながら歌う男を見かけた。

何時も同じ場所でよく見かける歌う男。



其の歌声が何時も何処となく

何かを求めているような歌に聴こえた。



其れは未だ見ぬモノを求める歌ではなく

失ってしまったモノを求める歌に感じた。



コンビニで温かい缶コーヒーを二本買った。

何も言わずに一本を歌う男の足元に置くと

歌う男は少し驚いた顔をしてお辞儀をした。





失ってしまったモノ。





一日分の疲労と雑音の連れ方は

今でもよく解ってはいなかった。

割と最近まで

毎日何もせずに生きていたから。



男には愛した女がいた。

正確に言うと

愛していたのだと

最近気付いた女がいた。



仕事もせずに気侭に生きていた男の元へ

飽きもせずに毎日のように通う女だった。



何時も一日分の疲労と雑音を連れてきた。

男は、女は好きだったが、女の雰囲気は嫌いだった。

そういう女を見ていると、何故だか悔しくなったからだ。



だから男は何時も激しく女と抱き合った。

そうすれば不思議と悔しくなくなった。

そうして気侭な毎日を過ごした。


しかし

女が男の元へ通う回数が少しずつ減っていった。

男は女の帰りを待つだけの生活になってしまった。

そして女がパッタリと男の元へ通わなくなると

男には毎日するべき事が何も無くなってしまった。



不安。



気侭で在るという事は

もしかしたら

甘えなのかもしれない。



だからと言ってするべき事は何も無い。

女の来ない部屋で女を待つだけの毎日。

何故そうなったのか解らない。

だから待ち続ける。



待つ事の他にするべき事が無い。

待つ事を止めたら後は何も無い。

待つ事が生きる理由でしか無い。



だが、悟ってしまった。



何故か

或る日

理由も無く悟ってしまった。



女は帰って来ない。







再度



強烈な不安。



強烈な孤独。






























空白。






























鉛筆を、手に取る。



本当に、何気ない、動作。



まだ、指くらいは、動かす事が、できた。



太い線を描く。

続いて細い線。



太い線を描く。

続いて細い線。



太い線を描く。

続いて細い線。



線を、描いていく。



曲線を描く。

直線を描く。

斜線を描く。



線を、描いていく。



小指が、炭で黒くなっていく。



何も考えずに

線を重ねていく。

何も考えずに

線を重ねていく。



線はやがて絵になる。


絵はやがて命になる。


先刻まで純白であった紙の上には


女が描かれていた。


女が生まれていた。


女は笑っていた。








男は、泣いていた。








其の日から男は街へ出た。

生きる理由を見付けるのではなく

生きる理由を作らねばならなかった。



男は絵を描いた。

通り過ぎる見知らぬ人達の似顔絵を描いた。

感情は込めない。

模写と割り切る。

そういう絵を描いた。



絵。



男が生きる唯一の理由。

似顔絵を描くと皆喜んで

笑顔で男に金を手渡した。



絵を描くと、人は、笑ってくれる。

絵を描いて笑った事は、まだ無い。








其の日。

ポケットには四枚の紙幣が在った。

似顔絵を数枚描いて手渡された報酬。

男は無造作にポケットに紙幣を入れると

見慣れた繁華街を家路へと向けて歩いた。



横断歩道。



点滅する信号。



足早に歩く人波。



其の奥。








何処か、聴き慣れた声が在った。


何時か、触れ慣れた体が在った。






















女。






















女が居た。


気が付くと男の目の前で


男が待ち続けた女が歌って居た。


もうずっと帰らないままだった女。


つい先刻まで会えなかったはずの女。


そして男は今こうして立っている。


女がやっと見付けた探し物のように感じられた。




聴く以外に何も考えられなかった。




女は歌を歌っていた。


確実に、生きていた。


男が生きる理由と死ぬ理由を


女に一方的に委ねていた間に


そんな間に


女は確実に一人でイキを始めていた。




生きる理由と死ぬ理由。


男と女。


絵と歌。


綺麗な声で女は歌った。


ポケットの四枚の紙幣。


ギターケースに入れた。




其れで終わった。




四日後、男は住み慣れた街を離れた。

今は此の街で絵を描いて生きている。

住み慣れた街よりも少し栄えた街で。



寒さでヌルくなった缶コーヒーを飲みながら。

そうしてやがて此の街に住み慣れていくのだろう。

歌う男が隣に座りながら缶コーヒーを飲んでいる。



ゆっくりと息を吐き出す。

白い息。

歌う男が、不意に言った。




「お礼に何か歌いましょうか」




歌う男はおもむろに立ち上がると

ギターを弾いて歌い始めた。



寒空の下で相変わらず

道行く人は足早だった。



こうして

未だ見ぬモノを求める歌ではなく

失ってしまったモノを求める歌を

聴きながら

未だ見ぬモノを求める絵ではなく

失ってしまったモノを求める絵を

描き続ける



かもしれない。



是からもずっと。



太い線を描く。

続いて細い線。



其れが唯一の

生きる術であるし

生きる全てかもしれない。



自分の描き上げた絵を眺めて

心から満足して笑える瞬間が

もしも、在るのだと、したら。



太い線を描く。

続いて細い線。






其れはどんな瞬間なのだろう。






歌う男の歌った歌が

冬の空と夜の街に大きく響いて

男はもう冷たくなった缶コーヒーを

ゴクリと飲み干した。












太い線を描く。

続いて細い線。



太い線を描く。

続いて細い線。



一本、一本。



やがて其れが絵になる。






描き終えると母親は楽しそうに笑った。






絵を描いて笑った事は、まだ無い。
















全てを描き上げた後には、笑えるのだろうか。



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