何処からか、ギターの音色が聴こえる。

其れは彼女の奏でる音色だった。


彼女の奏でる音色は

柔らかく空気の上を浮いてる音色だ。

触れたらすぐに溶けてしまいそうだ。


何処からか、ソプラノの旋律が聴こえる。

其れは彼女の伝える旋律だった。


彼女の伝える旋律は

細く伸びた糸を指ではじいた旋律だ。

触れたらすぐに切れてしまいそうだ。


何処からか、彼女の歌声が聴こえた。

彼女の歌声は細い糸のようで

細く伸びた糸を指ではじいたら

きっと彼女の歌声になるんだ。





#08 ―baby did not have to die.―

 『歌那香B』




青信号は点滅して居る。


ハンバーガー・ショップを出ると

歌那香は来た道を、今度は逆方向に歩いた。


繁華街の真ん中に在る

十三階建ての大きな建物。

八階にはCDショップが在って

其のずっと上には、屋上が在った。


大きなシャッターは

既に閉じられて居る。


閉じられた大きなシャッターの

其の前。

其処が、歌那香の場所だった。


ギターケースをズシリと降ろし

小さく息を吐き出す。


目の前に、一本の街灯が立って居る。

オレンジ色。

街灯は高く、歌那香を照らしている。

街灯は細く、歌那香を照らして居る。


歌那香はギターを取り出すと

六弦から一弦までを、指で弾いた。


風が吹いて居る。

其れは涼しい風では無く

冷たい風だ。

季節は秋だ。


歌那香は一度だけ

小さく咳払いをすると

大きく息を吸い込んで

力強くギターを弾き始めた。






(誰かの代わりに叫んで。誰かの代わりに壊して。)






青信号は点滅して居る。

まだ赤信号では無い。


侵入の機会を、何時でも窺って居る。

何に対しての、侵入の機会だろうか。


歌那香が想い描く

まだ知らぬ世界に対しての

侵入の機会。


此処には居たくない。

此処には居たくない。


記憶



または其れに引き連れられた衝動



歌那香の内側から

歌那香の喉だとか

歌那香の腹だとか

歌那香の心だとか



突き破り

歌那香の首を絞める。


絞められた首の奥から

奥の奥から

歌那香は声を張り上げる。


叫ぶ。

唄う。


此処には居たくないのだ。

此処には居たくない。


片道切符のような何かを

歌那香は求める。


何が必要なのか。

片道切符のような何かを得る為には

あと他に何を失えば良いというのか。


等価交換。

平等に交換されるべき事象。

あと他に何を失えば、得られるというのか。


青信号は点滅して居る。


何も言わず



青信号は点滅して居る。






















少女。






















気が付くと

歌那香の目の前に

少女が一人、立って居る。


長いマフラーを首に巻いた少女。

ハンバーガー・ショップで見かけた少女。


少女が、歌那香の目の前に、立って居る。

歌那香は、気にせずに歌を唄い続けたが

其処でフと気が付いた。

少女はヘッド・フォンを、耳に当てて居る。


歌を聴いて居ないのだろうか。

ところが少女は

じっと歌那香を見詰めて居る。


歌那香は力強く唄い続けた。

少女はヘッド・フォンを外さなかった。

なので歌那香は更に力強く、叫ぶように歌い続けた。


届け。

届け。


ところは少女はヘッド・フォンを外さなかった。

唄い終えると、歌那香はとても虚しい気分になった。


目の前に誰かが存在するのに

自分は精一杯に、此処で叫んで居るのに

目の前の誰にも、何処にも届かないような気分になった。

なのに少女は、やはり歌那香を見詰めて居る。


歌那香は冷たい空気を吸い込むと

出来得るだけ穏やかに吐き出した。


届ける為に叫ぶのか。

叫ぶ為に届けるのか。

等価交換。

何を失うべきで

何を得るべきなのか。


否、違う。

歌は優しい。

歌は楽しい。

只、其れだけだって良いはずだ。


ギターの調律を合わせて

歌那香は口笛を吹いた。

そうだ、今夜は、この歌を唄おう。



(何かを得る度に、アンタは何かを失うだろう。)


(何かを失う度に、アンタは何かを得るだろう。)


(恐らく、其れは考えすぎだけれど。)



歌那香は一弦を指で弾くと

スロー・モーションのように

緩やかに

其れから

穏やかに

歌那香の好きな歌を唄い始めた。


歌那香の奏でる音色は

柔らかく空気の上を浮いてる音色だ。

触れたらすぐに溶けてしまいそうだ。


歌那香の伝える旋律は

細く伸びた糸を指ではじいた旋律だ。

触れたらすぐに切れてしまいそうだ。


歌那香の歌声が聴こえた。

歌那香の歌声は細い糸のようだ。

細い糸を指ではじいたら

歌那香の歌声になるんだ。


少女は、ヘッド・フォンを外した。

其れから静かに腰をおろすと

目を閉じて、歌那香の歌声を聴いた。


オレンジ色の街灯が

高く

細く

歌那香を照らして居た。



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