カメラを首にぶら下げて

女は緑色のベンチに座って居た。

ペンキが剥げかけて、中の木が見えて居る。


ベンチの前にバス停。

標識のようなバス停。

錆びた鉄の棒が一本だけ立って居る。


女は小さな欠伸をして

ネジ巻き式の小さな腕時計を眺めた。


午前と午後の中間。

本日は晴天。

視界は良好。

青空には紅葉がよく映える。


コンクリート色の緩い曲線の向こうから

クリーム色に塗られたバスが走って来た。


停車音。

空気音。


扉は開いたが女は乗り込まず

クリーム色のバスは再び空気音を響かせると

少しだけ面倒くさそうに扉を閉じて、同じように走り出した。


女は首にぶら下げたカメラを右目に当てると

走り去るバスの背中を、何気なくフレイムに収めた。


世界に自分とバスだけが存在するような感覚。

バスは次第に小さく、遠く、離れて行く。

過ぎ去りし何かを、残そうとする。

人差し指がシャッターに触れる、瞬間。


「ごめんなさい、待った?」


背中越しに、声が聴こえた。

女は思わず指を止めて、後を振り返った。

小さく息を吐き出して、呼吸を整える少女の姿が見えた。


「ううん、待ってない、時間ぴったり」


女は微笑むと、緑色のベンチの右側を、手で払った。

特に汚れて居る訳では無いが、気分の問題だ。

其れから右手をベンチに添えて、言う。


「座ったら?」


少女は頷くと、女の隣に座った。

少女の首に巻かれた長いマフラーが

緑色のベンチに尾っぽを下して休憩して居る。


少女はマフラーの上にヘッド・フォンまで巻いて

首だけが奇妙なほど重そうに見えた。

なので女は笑った。


「何を聴いてたの?」


女はヘッド・フォンを指差して言った。

少女は少しだけ不思議そうな顔をして女を見ると

女の台詞の意味を理解したらしく、途端に嬉しそうな顔をした。


「曲?」

「そう、何を聴いてたの?」

「コレはね、こないだね、貸して貰ったの」


少女は楽しげに首からヘッド・フォンを外すと

今度は其れを女の耳に当てた。

再生ボタンを押す。


銀色の円盤が回転を始めた。


耳元から PEARL JAM が流れる。

女が初めて聴いた No Code の一曲目は何だったか。

そうだ、Sometimes だ。





#11 ― sunday in the music. ―

 『日曜日@』




「食べる?」

バスに乗った後で、少女が言った。

少女の手に握られて居たのはマーブル・チョコレイトだった。


「それ、この間の?」

女は思わず笑って、数日前の出来事を思い出した。

少女は何粒かのマーブル・チョコレイトを口に放り込んで、笑った。


数日前の夕暮れに、交差点で出逢った少女。

カラスが頭上を通り過ぎて往って、女は其れを写した。

通り過ぎた視線の先には交差点が在って、其処に少女が立って居た。


少女はカラスを見上げて居た。

オレンジ色の中で少女は奇妙なほどに美しく

この世の全ての儚さと優しさを詰め込んだようにさえ見えた。


女は思わず少女の姿を写した。

すると背後から知らない女性に声をかけられた。

知らない女性から、何故かマーブル・チョコレイトを手渡された。


少女の落し物だから渡してあげて欲しい、と言われた。

何故、自分が?

理由はよく解らないけれど

運命の糸のような何かが存在するならば

恐らくは今が其れを握り締める場面なのだろうと思った。



「瑞希さん、何色が好き?」



隣で少女が声をかけた。

バスの窓外には、紅葉の街路樹が見える。

少女が瑞希と呼んだから、女の名前は瑞希だった。

日曜の正午のバスに乗客は少なく、少女の声がよく響く。


「色?」

「うん、何色が好き?」

「そうだな、緑色かな」

「あのね、私はね、オレンジ色が好き」


成程、それは解る気がする、と思って

瑞希は笑った。


少女はマーブル・チョコレイトの箱を振ると

手の平に何粒かのチョコレイトを落とし

緑色のチョコレイトを発見すると

其れを瑞希に手渡した。


大して愛想も無い放送が車内に響き

バスは赤信号で停車した。

少し先にバス停が見える。


バス停に着くと何人かは降り

等しく、何人かは乗り込んだ。


ペンキも剥げかけたような

小汚い町営バス。

独特のゴムのような臭いと

所々ボロボロの椅子に座る。


「食べないの?」


少女が瑞希の手の平を眺めて言う。

瑞希は何となく笑って、自分の手の平を見た。

緑色のチョコレイトが、手の平に乗せられたままだった。


「何だか勿体無くってね」


停車音。

空気音。

アクセル音が響いて、再びバスは走り出した。


不意に、瑞希は右手でカメラを手に取ると

左手に乗せたマーブル・チョコレイトをフレイムに収めた。


世界に自分とマーブル・チョコレイトだけが存在するような感覚。

バスが揺れる度に、カメラの照準も揺れる。

此処に在る何かを、残そうとする。


少女を写真に収めたい。

瑞希が感じたのは、何故だったのか。

よく解らないけれど、夕暮れのオレンジ色の中で

少女は儚さと優しさを詰め込んで、生きてるような気がした。


少女が落としたマーブル・チョコレイトを渡そうと

初めて声をかけた時にも、同じように感じた。

少女とハンバーガー・ショップで話した。

瑞希は少女を被写体にしたかった。


其れは使命感にも似た感情だった。

少女の存在を、自分が残さなければならない。

少女が此処に居る事を、残しておかなければならない。




数日前。

ハンバーガー・ショップで交わした会話は

実に普通の会話だった。


「今度、写真を撮らせてくれないかな」

「誰を? 私を?」

「正解、写真を撮らせてくれないかな」


瑞希はカメラのレンズを少女に向けて

少しだけ冗談めかして想いを伝えた。

少女はアップル・パイを齧りながら

少しだけ困惑した表情を浮かべた。


「私なんか撮っても面白くないよ」

「ううん、面白そうだよ」

「どうして?」


瑞希はカメラをテーブルの上に置くと

既に暗くなった、店の窓の空を眺めて呟いた。


「さっき、カラス、見たでしょ」

「カラス?」

「カラスにね、撮れって言われた気がするの」

「誰を? 私を?」

「うん、こんな話、信じないだろうと思うけどね」


ところが少女は

実に真剣な表情をした。

其れから意外な台詞を呟いた。


「カラスはね、言ったんだよ」

「何を?」

「解んない、解んないけどね、私に言ったんだよ」

「君に?」

「私はね、今をね、精一杯にね、生きなきゃいけないんだって」

「今を?」


瑞希は少しだけ笑って

レモン・ティーを口に運んだ。

其れから少女の頭を撫で、こう言った。


「私と一緒だ」


バスは走る。

走る。

走る。


目的地は何処だ?

まだよく解らないけれど

此処から行ける一番遠い町まで。


「次の日曜日に会おう」


少女と瑞希は、並んでハンバーガー・ショップを出た。

そして今日

少女と瑞希は、並んで日曜日のバスに乗り込んで居る。


大して愛想も無い車内放送が響く。


瑞希は手の平のチョコレイトに、カメラを向けた。

緑色のマーブル・チョコレイト。

現在の保存。


瑞希の人差し指がシャッター・ボタンを押せば

其の瞬間に、手の平の全ては、保存されるはずだった。

ところが瑞希の人差し指が動くよりも先に、少女の指先が動いた。


「食べて」


少女は瑞希の手の平からチョコレイトを摘まみ上げると

其れを瑞希の口の中に放り込んだ。

瞬間的な接触。


ペンキも剥げかけたような

小汚い町営バス。

独特のゴムのような臭いと

所々ボロボロの椅子に座る。


バスは走る。

走る。

走る。


目的地は何処だ?

まだよく解らないけれど

此処から行ける一番遠い町まで。


午前と午後の中間。

本日は晴天。

視界は良好。

青空には紅葉がよく映える。


マーブル・チョコレイトは

瑞希の口の中で簡単に溶けた。

保存する暇も無く簡単に溶けた。



本日は、日曜日。



久し振りに舌先で味わったチョコレイトは

瑞希の記憶に染み込んで

何度でも思い出せるほど

何度でも思い出せるほど

甘く

甘く

甘く、甘かった。



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