■は行
ハサミ




書きたい事も無いのに書いてしまう行為は、
吸いたくも無いのに吸って、吐きたくもないのに吐いてる行為と似てる気もするのだけれど、
まぁ実際そんな事は別にどうでも良くて、それよりもっと的確な表現を用いるならば、
こんなのはハサミを持てば切りたくなるのと同じなんだよ。

という訳で今正に、僕は己の喉元に鋭利なハサミを突き立てながら、
嗚咽のような言葉を書き連ねている訳だけれど、自殺志願者は明日の事を考えないってのは本当なのかね?
そこで僕は左手でハサミを喉元に突き立てながら、
右肩と首の間で携帯電話を器用に挟み、どう考えても不自然な体勢で文字を書かなければならなくなった。

携帯電話の向こうには、よく知る自殺志願者がいるのだけれど、
彼(もしくは彼女)はこのような場合、大抵くだらない深夜のバラエティ番組か、
それとも多分借りてきたばかりの新作映画のDVDなんかを観ながら「どうしたの?」なんて呑気な声で訊いてくる。

「自殺志願者は明日の事を考えないのか?」

不躾に切り出した僕に対して、自殺志願者である彼(もしくは彼女)が切り返した回答が秀逸で、
要するに明日の事なんて考えられないはずの人間がレンタル・ショップで新作DVDを借りるのは、
明日の事を考えてるからに他ならないし、もしかしたら一週間後の事さえ考えてるって事だ。
今、死んでしまうかもしれない人間がレンタル・ショップで新作DVDを借りてきて、
あまつさえそれをベッドの上に寝転びながら喜んで鑑賞してる事の滑稽さが手に取るように解るだろう。

「明日の事は考えるね。それはそれとして、今日が厭になるだけで」

携帯電話の向こうから聴こえる声は、呑気に呟いた後で笑ったけれど、
その笑いは僕との会話に向けられた笑いではなく、恐らくバラエティ番組か何かに対して向けられたものだろう。

それでは何故、僕等は毎日を嘆きながら、くだらないと吐き捨てながら、
それでも吸いたくも無いのに吸い、吐きたくも無いのに吐いてるのかを考えてみるに、
薄ら寒い台詞で申し訳ないが、世界が些細な希望に満ちているからに他ならない。

レンタル・ショップで新作映画を借りてきた者は、
少なくともレンタル期間中は生きていなければならない希望を得るし、
人気のドラマを観た者は、少なくとも一週間、次回の放送を待たなければならない希望を得る。

それは本当に些細な希望で、
人間が人間の為に(もしくは日本人が日本人の為に)わざわざ作り出した希望だと言っても良いだろう。

そこで僕は彼(もしくは彼女)に問いたくて仕方が無くなったのだけれど、
もしもその映画が終わってしまったらどうする気なのだろう?
延々と繰り返し同じ映画を観続ける訳にもいかないだろうし、
些細な希望はどれだけの間、僕等を生き長らえさせてくれるのだろう?

「映画に飽きたら小説を読むよ。それから食事もするだろうね」

僕の疑問に対する回答は、上記のように呆気ない回答だった。
なるほど、映画に飽きたら小説を読めば良いし、腹が減るなら食事だってするだろう。
食事を済ませて風呂に入浴したりもするだろう。
濡れた髪を乾かしたりしながら、テレビでも観るだろうし、テレビに飽きたらコンビニに行って雑誌でも買うだろう。
雑誌を買いながら新発売の菓子なんかを発見して、思わず雑誌と一緒に買っちゃったりもするんだろう。
何だ、よく出来てるじゃないか。

鋭利に張り巡らされた感覚の奥に潜んだ、身動きの取れない緊張感が、切れてしまうのを待ってるんだ。
あと何秒後かは解らないが、僕は僕の喉元をハサミで突き刺そうとするだろう。
その衝動を止める方法を、先程からずっと探してる。
左手にハサミを持ち、右肩と首で携帯電話を挟み、右手で文字を書き続けながら探してる。
ところが何の事はない。
ほんの些細な希望を見付けるだけで、次の行動なんざ簡単に決まるんじゃないのか?

「明日の事は考えるね。それはそれとして、今日が厭になるだけで」

今日が厭になる理由ってのが何なのか解らないけれど、
今日の何が厭なのかと考えるに、喉元にハサミを突き立て続ける自分自身の今日が厭だ。
厭ならばどうすれば良い?
いっその事、ブスリと突き刺してしまおうか?

馬鹿を言うなよ、そうしたらこの言葉の続きが書けなくなるじゃないか。
僕は辞めちまいたい訳じゃなくて、怖いだけなんだよ、きっと色んな事が。
怖い思いをするくらいならば辞めたい、と思うだけで、辞めたくはないんだ。

辞めたくはないならば、辞めなければ良いだけなのに、
色んな事に理屈をこねて、辞めなければならない理由を探してるだけのような気がする。
何が悪い、誰が悪い、なんだかんだ好き勝手言ってさ。
それで結局、僕は何が怖かったのかと考えてみるに、何が怖いのかはよく解らないのさ。

「今、君に出来る事をしなよ。
 今、君に出来る事を、もしも今、君がしないなら、
 今、君に出来ない事を、何時か君はしなければいけなくなるよ」

自殺志願者に明日と現在を諭されて、僕は電話を切った。
それから蛍光灯に照らされて、鋭利に光るハサミを床に投げ捨てた。

ああ、馬鹿げてる。
何もかも馬鹿げてるが、恐らくは爽快に馬鹿げてる。

別に数分前と何ら変わらぬ日常が垂れ流されているだけだったが、
少なくとも今、僕は些細な希望に導かれるように、まだ、こうして何かを書き続けている。

 些細な希望だけが、床の上で、鋭利に光ってる。

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