■は行
パントマイム刑事 前編




母がホームランを打った日に父が引退宣言をした。

僕が修学旅行へ行く前の日だった。
父が何から引退したのかは知らないが
旅行から帰ると家が無くなっていた。

僕はお土産をカバンに詰めたままで
立ちすくむ母の背中を見ていたんだ。

父は引退したきり姿を見せない。
母の話では現役時代はアレがコレで凄かったらしいけど。
とにかく其の日から僕と母は路上パフォーマーになった。

皆が投げ入れるお金で毎日を暮らした。
カバンの中のお土産はボロボロになっちゃって。
考えたら長い事、母の笑顔を見てないって気づいた。

ホームランを打った日の笑顔を最後にね。

だから考えたんだ。
母の笑顔を見ながら生活する手段をさ。

そして僕はパントマイムを覚えたんだ。






『パントマイム刑事』

前編:"The Finger that Deprives of All Anxieties."
    (汝は指先で全ての者達の憂いを奪うだろう)







ボイラーの音が響いて居た。

自動販売機の前。
警察署内の薄暗い廊下の一角。
暗く硬い壁に、ボイラーの音だけが下品に響いて居た。

小林刑事は財布を握り締め、自動販売機を見つめていた。
今自分に必要なのはビタミンか、其れともカカオか。

ようやく決めて自動販売機に金を入れる。
ボタンを押そうとして、やはり其処で迷う。

自分が一度こうなると中々決められない事を
小林刑事は自身の経験からしっかりと自覚していた。
短髪のまだ幼さの残る容姿に比べると
若干こけた頬が、彼の苦労性を物語った。
時折胃腸が痛くなるが、其れももう馴れた。
人間の身体の順応性を甘くみてはいけない。

只、自分は刑事向きの性格では無いかもしれない。
そんな心配が、彼の細い胃腸を、再び締め付けた。

不意に手が伸び、誰かが自動販売機のボタンを押した。
小林刑事はモタモタしていた己を恥じながら後ろに下がった。
其のまま何故か、うつむいてしまった。

機械音が聞こえ、続いて金属が落ちる音。
素早く取り出して、立ち去って行く足跡。

何と機敏な行動力と判断力であろうか。
小林刑事は顔を上げると
今まで此処に居た人物を目で追った。
影が廊下の角を曲がる瞬間が見えた。

彼だ。

パントマイム刑事の後姿が一瞬見えた。
署内一の敏腕刑事が一瞬だけ見えたのだ。
手には缶ナタ・デ・ココが握られていた。
小林刑事は思わず遠い目をしてしまった。

そして自分もナタ・デ・ココを飲もうと決意した。
再び自動販売機と向かい合う。
ボタンを押そうとして、其処で気づいた。


「さっき俺が入れた金は……?」


パントマイムの動きは機敏なのだ。

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