■は行
白昼バス(前編)




其れは下校バスだった。

僕は雑音と喧騒の最中に居ながら

何かを聴いて居たし、何をも聴いて居なかった。


創立から数年を経た以外は特に変哲も無い校舎の

其の横には砂利が剥き出しの大きな旋回場が在り

雨空の下には赤錆びた下校バスが数台並んで居た。


校舎の窓からは数人の生徒が雨空を眺めて居た。


やがて放課後の生徒達は

徐々に旋回場へと集まり

次第に其の数を増やしていった。


其処には様々な生徒が居た。

規律を守り順番通りに並ぶ女子生徒や

列の前方に割り込んで並ぶ男子生徒や

例えば僕や、僕の彼女が居た。

なので其処には、やはり様々な生徒が居た。


其れは下校バスだった。

僕は雑音と喧騒の最中に居ながら

何かを聴いて居たし、何をも聴いて居なかった。

雨空の下で、様々な色彩の傘が、各々に咲き誇って居た。


赤色の傘。

青色の傘。

緑色の傘。

黄色の傘。

其れから、透明の傘。


雨空の下で様々な色彩の傘が咲き誇っては居たのだけれど

下校バスの乗車扉が開かれると、少しずつ傘は閉じられた。

緩やかに傘は其の色を減らせて往き

最後には無彩色の砂利が見えるだけとなった。



雨粒。



下校バスは走り出した。



其れは下校バスだった。








『白昼バス』 (前編)








窓ガラスには水滴が流れて居た。

混沌とした雑音の中から微かに

幾度かの車内放送が聴こえたが

湿気と生温い熱を帯びた空気が

其れを遮断した。


車内は放課後の生徒で満員だった。

各々が各々の活動をして居た。

吊皮に凭れて会話する者や

座席で静かに読書する者や

窓の外を眺め続ける者も居た。


強い雨粒。


僕と彼女は後部座席の辺りに押し込まれた。

特に何を話す訳でも無く、手を握り合った。

其れ以外に成すべき事も、今は無かった。


僕と彼女は手を握り合って其処に居た。

余った手で必死に吊革にしがみ付きながら。

只管に揺れる車内で互いの体を支え合った。


雨で濡れた、床に置いた鞄が、窮屈そうに揺れた。


僕は手を握った。

理由など解らなかった。

単純に、そうするべきなのだろうと思った。


揺れる車内では手を握って相手の体を支えるべきだ。

其のような知識が何時からか植え付いて居ただけの話だ。

僕等は何を話す訳でも無く、手を握り合って其処に立って居た。


満員の下校バスは湿気と生温い熱を帯びた空気が漂うバスで

其のくせ、妙に静かだった。

僕と彼女は後部座席の辺りで互いの手を握り合っては居たが

其のくせ、妙に静かだった。


弱い雨粒。


彼女とはもう随分と長い時間を共にして居たし

其れなりの大切な記憶や約束を積み重ねてきた。


何度も肉体を重ねたし

何度も言葉を交わした。

誤解や擦れ違いや言い争いを経て

やはり互いが必要なのだとも感じたし

其れが永遠で在れば良いとさえ感じた。


一般的な恋愛関係だ。

だけれど其れ等の感情は

永遠に保存され得る訳では無い事を

僕は既に知って居た。




或る、秘めた侭の感情。




僕等はこうして下校バスに乗り

明日になれば同じバスで登校し

授業を受け、弁当を食べ

再び同じ下校バスに乗るだろう。


恐らくは同じサイクルで日々を過ごし

やがて卒業し、就職し、結婚するだろう。

僕が彼女と今後も手を繋ぎ続けるので在れば。


其れ等に何の苦痛も不満も無かったけれど

其れ等は既に想像できる将来の展望だった。

変化や刺激に乏しすぎる将来の展望だった。


僕等は惰性を感じながら

だけれど離す理由も無く

そうして手を繋ぎ続けた。


僕と彼女は只、手を握り合って其処に居た。

余った手で必死に吊革にしがみ付きながら

只管に揺れる車内で互いの体を支え合った。


理由など解らなかった。

単純にそうするべきなのだろうと思った。


揺れる車内では手を握って相手の体を支えるべきだ。

其のような知識が何時からか植え付いて居ただけの話だ。

其れは何時からか何処からか他人に教えられた

道徳や観念に近い感情かもしれなかったけれど

特に否定する理由も無かった。


彼女の事は好きだった。

手を繋ぎ続けた。


下校バスは最初の大きな停留所に着いた。

其処で半分の生徒が降りる。

座席の生徒達は立ち上がり

後方の生徒達は掻き分けて

降車扉に大勢の生徒が押しかけた。


彼女が降りる停留所も此処だった。

僕等は其れが当たり前の事で在るように

何も言葉を交わさぬ侭、互いの手を離した。


僕等が手を離す最後の瞬間

彼女の中指が離れる最後の瞬間

僕は大切な何かを忘れてるんじゃないかと

僕はとても大切な何かを忘れてるんじゃないかと

そんな気がしたけれど


僕等の指は

自然と離れて

実に自然と離れて

彼女はバスを降りた。






下校バスは静かだった。

半分の生徒が居なくなった車内には

やがて乾いて往く蒸れた雨の匂いと

奇妙な静寂と何個かの空席だけが残った。


様々な事が惰性の中で過ぎて行った。

僕と僕の彼女が繋いだ手や

僕と僕の彼女が離した手に

理由を見つける術など無かったし

只、様々な事が惰性の中で過ぎて行った。


きっと

大切な何かを見過ごした侭だった。

大切な何かを言い逃した侭だった。

当たり前に過ぎて行く日常の中で

当たり前だった筈の多くの何かを失った。


其れでも少なくとも今の僕には

惰性で日々を乗り切るより他に

思い付く方法など無かった。


降車扉が勢い無く閉ると

赤錆びたバスは再び走り始めた。

窓ガラスの水滴は音も無く落ちた。


其れは下校バスだった。

僕は雑音と喧騒の最中に居ながら

何かを聴いて居たし、何をも聴いて居なかった。




或る、秘めた侭の感情。




其れは下校バスだった。

行き着く先は解らなかった。

僕の行き着く先は解らなかった。

只、僕は最後部の座席に、座った。

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