■は行
バス停




大きく湾曲した三車線の向こう側に、歩行者用信号機が何度も点滅しているのが見えた。
三車線と言っても交通量は少なく、税金の無駄遣いのような道路だ。
市営バスが左折した。

彼女は退屈そうに、歩かなければいけない人のように歩いた。
押しボタン式の小さな横断歩道の先に、古いスーパー・マーケット。
あの時、僕等はどんな会話を交わしていたっけ。

「スーパーに寄っていこう」

「バス来てるよ?」

「一本くらい遅らせても良いよ」

押しボタンを押すと三車線の信号機は青から赤に変わり、
先程、向こう側を左折して近付いていたバスは、その赤によって停止する事となった。
彼女と僕は小さな横断歩道を渡った。
白、黒、白。

「何してんの?」

「白だけ踏んで歩いてんの」

スーパー・マーケットの前にはガチャガチャが二台置いてあり、
今時の子供は喜びもしないような景品が入っていた。
一台は一回百円で、もう一台は一回二十円。

「二十円のガチャガチャなんて、まだあるんだな」

サビの上に何度かペンキを塗り重ねたような青色のシャッターは、
何故か一番左の一枚だけ降ろされている。
残り二枚のシャッターはまだ降ろされておらず、ガラス張りの壁から店内が見える。
真ん中のガラスには、セロファン・テープで貼り付けたようなポスターが貼っている。
日光で色褪せており、何時のポスターだか解らないが、何かの商品のキャンペーンらしい。

「ガチャガチャ懐かしいな、やろうかな」

「大したモンは入ってないよ」

「二十円だもんね」

彼女は財布から十円玉を二枚取り出すと、
ガチャガチャの硬貨投入口に、それを静かに重ねるように、入れた。
それから小さな白い手でハンドルを握ると「ガチャリガチャリ」と、少し乱暴に回した。
酷く小さくて透明なカプセルが落ちてきた。

「何だろうコレ?」

「子供の化粧品っぽい玩具だと思う」

「ああ、消しゴムだよコレ、香りの付いた消しゴム」

大切に待ち続ける程のモノでも無ければ、
道端に投げ捨てる程のモノでも無いんだ、ガチャガチャの景品なんて。
扱いに困って、最後には捨ててしまうだろうけれど、今すぐ捨てるようなモノでも無い。

何の価値も無いようなモノを、まるで一生の宝物みたいに、
大切にしまいこんでいたのは、何故だったんだろうな、と考えるんだよ。
だって大した価値は無かったはずなんだよ、気軽に手に入るようなモノばかりだった。

「果物の香りシリーズなんだって」

二十円のガチャガチャの台には確かに「果物の香りシリーズ」と書いている。
他に何シリーズがあるのか、別に気にもならないが、恐らく花の香りとか、その辺だろう。
彼女は小さな消しゴムを、自分の鼻に近付けて「コレは何の果物の香りなのかな?」と言った。

「何の香り?」

「多分ね、オレンジかな、解りにくいけど」

「二十円だしね」

「二十円だしね」

僕等は何となく笑った。
それからスーパー・マーケットの店内に入って、ソーダ味のアイス・バーを買った。
アイスに棒が二本付いていて、袋の中で半分に割ると、僕等はそれを一本ずつに分けて食べた。
時刻は夕方に近付いていたけれど、夏の空気は湿って重く、まだ暑かった。

バス停には既に人が並んでいた。
エアコンも効いてないようなスーパー・マーケットを出ると、
やはり夏の空気は湿って重く、まだ暑い事を改めて知らされる事となった。
アイスを食べながら、僕は横断歩道のボタンを押そうとした。

「はい、コレあげる」

不意に、彼女は僕のシャツのポケットに、そっと何かを入れた。
それが香りの付いてる消しゴムだと予想する事は、あまり難しくは無かった。
ソーダの香りに紛れて、ほんの一瞬、オレンジの香りが漂ったような気がしたからだ。
単なる消しゴムの香りだったかもしれない。

「要らないの?」

大切に待ち続ける程のモノでも無ければ、
道端に投げ捨てる程のモノでも無いんだ、ガチャガチャの景品なんて。
扱いに困って、最後には捨ててしまうだろうけれど、今すぐ捨てるようなモノでも無い。

何の価値も無いようなモノを、まるで一生の宝物みたいに、
大切にしまいこんでいたのは、何故だったんだろうな、と考えるんだよ。
だって大した価値は無かったはずなんだよ、気軽に手に入るようなモノばかりだった。

「あ、バスが来たよ」

緩やかなカーブの向こう側から、市営バスが走ってくるのが見えた。
僕等は横断歩道の信号が青になるのを待たず、押しボタンを押してバスを止めようともせず、
赤信号のままの横断歩道を走った。
バス停に向かった。

彼女のミニ・スカートが、何度も、何度も揺れた。

何の価値も無いようなモノを、何で大切に想うようになるんだろう。
捨て時を失くしたまま、僕は退屈そうに、暮らさなければいけない人のように暮らしている。
押しボタン式の小さな横断歩道の先に、古いスーパー・マーケット、それからバス停があったんだ。
あの時、僕等はどんな会話を交わしていたっけ。

「大切にしてね」

バスの扉が開いて、彼女が乗り込む瞬間。
僕の胸ポケットを指差して、彼女は楽しそうに笑った。
僕は息を切らしながら、胸ポケットに手を当て、何となく相槌を打った。

そこに彼女がいたから、全ての景色は素晴らしかった。
そこに彼女がいたから、全ての出来事は宝物のように思えた。
きっと捨てられないモノがあるとしたら、それだけの理由なんだと思う。
何の価値も無いはずだった何かに、意味を求め続けたのは、僕等なんだから。

バスの扉が閉まって、彼女を乗せたバスは、再び走り出した。
僕は胸ポケットに手を当てたまま、小さく見えなくなるまで、その背中を眺めていた。

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