■は行
春とエメラルド




 春は速度を変えずに、僕等の町に訪れる。雪解けは嫌いだ。始まりよりも終わりを強く意識させるから。陸上部は放課後、校庭に集合――皆本カスミが言ったので、僕は此処に居る。放課後。校庭。水と泥。空と土。風が冷たい。全く僕の走行を邪魔するような、雪解けの雪。

「あれ、アンタしか来てないの?」

 錆びた白線引きを転がしながら、緑色のジャージ姿のカスミが現れた。新三年生のジャージほど、趣味の悪い色は無い。旧三年生――要するに先月の卒業生のジャージは小豆色で、それも充分悪趣味だったが、新三年生のジャージの艶やかな緑色(それはエメラルド・グリーンと表現したほうが良い)の趣味の悪さには敵わない。人混みに紛れても見失う事は無いだろう目の前のエメラルド・グリーンは、再び僕に話しかけた。

「仕方ないか、アンタしか居ないようなもんだし」

 グラウンドに白線を引く場合、最近では炭酸カルシウムを使う。一昔前までは石灰を使って居たらしいのだが、人体に害があるので使われなくなったそうだ。だとしたら石灰で白線を引いて居た世代は、侵された世代だな。何らかの害に侵されたのであれば、何らかの言い訳が成立する。僕の100mの走行タイムは、二年の秋にピタリと止まった。記録が伸びないのは炭酸カルシウムの責任では無い。人体に害は無いのだから。

「こんな状態じゃ、まだ走るの無理かなぁ」

 カスミは濡れた土の上に白線を引こうとして車輪を転がし、すぐに止めた。陸上部は僕を入れて六人。新三年生は僕一人で、残りは新二年生、新入生は何人が入部してくるのか、まだ解らない。普通の高校であれば、陸上部というのはもう少し活気がありそうなもんだが、我が校の体育会系部活動の盛り上がらなさは陸上部だけでは飽き足らず、野球部やサッカー部にまで及ぶ。我が校で最も盛り上がって居るのは「メディア研究部」で、その実態はアニメとラノベと声優好きの集まりだ。部員数は100人に上り、繰り返すがそれに対して我が陸上部は、僕を入れて六人しか居ない。

「走るのは、まだ無理じゃないか」

 走るのは無理。ならば何故、僕は此処に居る? 雪解けの校庭は白線を引く事さえままならず、六人の陸上部員は僕以外、まるで熱心では無いのに。卒業生――旧三年生は練習熱心だった。数年前までは部員数も多く、県大会で結果を残すような選手も少なくなかったらしい。そんな古き良き時代の影響を最後に受けたのが旧三年生だったのだが、彼等は結果を残せなかった。彼等の後に続く世代は育たなかった。
 全く意味が無い。新三年生――要するに僕達の世代は、僕とカスミだけが残った。カスミは最初1500mの選手だったが、二年の春にマネージャーへ転向した。僕達の世代は一年生の春には三十人近く在籍して居たが、二年生になる頃には十人に減少して居た。半年をかけて一人ずつ退部していき、二年の冬に八人目が辞めると、僕とカスミの二人だけになった。

「意味なんて無いな」

 100mの記録が伸びなくなって久しい。走っても走っても結果は出ない。別に走る事を辞めたって構わない。こんな学校の、こんな部活動で、誰にも期待されず、このまま結果を出せなくたって誰も困りはしない。記録が伸びたところで、どうせ全国レベルではない。退屈で死にたくなるよ。僕が100mを10秒で走ったところで、世界の何が変わる? 

「本気じゃないんだよ」
「え?」
「本気じゃないんだよ」

 何も変わりはしない。しかし走る。走るのが好きだから、なんて綺麗事にしかならない。100mの記録は伸びず、成長を止めた僕は第二次性徴の余韻に浸って居る。走るのは嫌いだ。疲れるだけだから。
 只、諦め切れない。こんなもんじゃない。
 すべからく他人に。伝えたい事を伝える術は、そう多くは無い。例えば、それは言葉だ。僕の本気はこんなもんじゃないと、頭の中で、魂の先で、馬鹿みたいに叫んでる。伝わるはずも無い。誰にも。声に出したところで、僕は自信過剰の変人だよ。意味なんて無いな。僕の言葉に意味なんて無い。僕の言葉に意味なんて無くても、僕が言葉にした瞬間、僕の言葉は世界に存在した。それは事実だ。同じように僕の無意味さにも、僕の無価値さにも、僕の無責任さにも、僕が生まれてきたのと同じだけの、重さは有る。そう信じたいんだ。

「本気じゃない?」

 目の前にカスミの姿は無かった。車輪を転がす音が聞こえて、白線を引くカスミの小さな背中が見えた。数秒間、僕はそれを眺めた。カスミは白線を引く手を休めると、エメラルド・グリーンのジャージの袖で汗を拭いた。吐く息が白い、まだ寒い校庭で、汗をかいた。屈伸。身体を温める為の準備運動。汗。白い息を吐きながら、僕は親指と人差し指で(絵描きが風景や静物を測るように)カスミの背中を測った。艶やかなエメラルド・グリーン。
 笑えるほど小さい背中だった。

「本気出せば、今すぐ届きそうだけどな」

 僕は指先で世界の小ささを測る。綺麗事さえ言えずに糞便ばかり垂れ流して、また世界の汚さを憂いてる。そういう真似だけは上手くなる。深呼吸したらどうだ。呑気に呼吸が出来るなんて奇跡だぜ。退屈に死にたくなるなんて、呆れるほど贅沢だぜ。世界は笑えるほど大きい。少なくとも僕の指先よりはな。

「本気出せば良いんだろ?」

 錆びた車輪を引き摺るようにして此方に歩いてくるカスミに、普段より少しだけ強い語調で、僕は言った。カスミは頬を薄く桜色に上気させ、汗で垂れ下がった前髪を人差し指で軽く横に流しながら、見上げるように僕を見た。呼吸。空中に溶けるような白。

「何の話ィ?」

 まるで呑気に言いながらカスミは立ち止まると、エメラルド・グリーンのジャージのポケットから黄色と黒のストップウォッチを取り出し、親指で何度か操作した。風に紛れて短い機械音。ピッピッピ。放課後。校庭。雪解けの青空。土の色。近付く春の匂い。まだ冷たい風。最高気温。最低気温。今、僕とカスミは、馬鹿みたく二人きりだった。

「さ、走ってみる?」

 ストップウォッチの画面を向けて、カスミは言った。

「別に」

 何に対しての反応か解らない言葉で、僕は返した。一日。一分。一秒。自覚する重さ。目の前に100sの小さな鉄と、100sの大きな埃があるとして、同じ意味だと思えるかい? 僕はすぐに鉄を拾おうとする。空気のような埃を集めようとはしない。また一日が、一分が、一秒が過ぎて往く。何も手には残らない。空中に手を伸ばせよ。埃なら飛んでるぜ。走りながら、走りながら、出来るだけ沢山の埃を掴まえるんだ。飲み込むんだ。溜め込むんだ。一歩、一歩、更に一歩、誰よりも速く。何の為に? 春は速度を変えずに、僕等の町に訪れる。

「私ね、アンタのタイム測るの、ちょっと好きだよ」

 もしも僕の中に希望を見付けたなら、君は小さく笑っておくれ。世界の大半は君と僕と、あとはエメラルド・グリーンの風と、他人で構成されて居る。もしも君の中に希望を見付けたなら、僕はまだ生きられる。一日後を、一分後を、一秒後を。其の証拠に、僕は小さく笑うよ。

「今、何て言った?」

僕の声にカスミは無反応で、代わりに新しい白線を引く車輪の音が響いた。

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