電車は止まったまま、随分と長い間、動かなかった。

車内は冷房を効かせているはずだけれど、午後の太陽は酷く暑くて、
私の席の近くに座っている何人かの老人は気分が悪そうだったし、
最初は手摺に掴まっていた人達も、今では床の上に座っていた。

打ち合わせの時間は、ゆっくりと近付いていた。
晴天の空から自由落下する雨粒のように、ゆっくりと近付いていた。
私の正面に座る男の子の背中越しには窓が見えて、窓の向こうには水滴が見えた。

雨が降っている。
それは夏特有の熱気を含んだ、ほんの短い、通り雨だった。
雨は晴れ間から、ほんの短い間、小説のページをめくるみたいに、パラパラと降った。

先頭車両では、一体何が起きているのだろう。
もしかしたら人が死んでいるかもしれなかったし、倒れているかもしれなかったし、
それとも想像しているよりも軽薄な、下品な、単純な出来事が起きているのかもしれなかった。
どちらが良いとは言えないけれど、願わくば深刻な出来事じゃなければ良い、と思った。

このまま私が打ち合わせの時間に遅れるよりも、深刻な出来事じゃなければ良い、と思った。




第八話 『夏雨』



「わかった、撮らせてよ、何時か」

神田君が笑いながら言ったので、私は短く「うん」と言った。
それは本当に些細な約束で、宛の無い、何の保障も無い、幼すぎる約束で、
それでも、それまでの私達の時間を埋めるには、充分すぎるほど大切な約束だった。

「ライカ、買えそう?」

「うん、このままいけば、秋には」

「秋か、いいね、秋の公園なんか、いいね」

私は、秋の公園で紅葉達に囲まれながら、
神田君のライカで写真を撮ってもらう自分を想像して、笑った。
今まで見たモノも、見ようとしてきたモノも、神田君と私とでは、きっとまるで違う。

神田君の目から見た私は、どんな姿に写るのだろう?
神田君の目から写された私の風景は、どんな写真になるのだろう?
私は花柄のワンピースを着て、神田君に写真と撮ってもらおう……少し寒いかな。
想像しただけで面白くて、私は一人で笑った。

「ワンピース、買えそう?」

突然、私の頭の中を読んだように、神田君が言った。
一瞬にして現実に引き戻された気がして、私は少しだけ不機嫌な顔をした。
頭の中で預金残高を数えながら、先程の神田君の台詞を真似するように言った。

「うん、このまま行けば、秋には」

「ディズニーランドに着て行くんでしょ?」

「どうかな、夏休みまでに買うのは、ちょっと難しいかな」

花柄のワンピース。
ディズニーランドに行く時に、どうしても着たかったワンピース。
今の私が手に入れるには、どう考えても相応しくない、とても高価なワンピース。

無理かな。
正直なところ、無理だと思う。
ディズニーランドに行くお金だって貯めなきゃいけないし。
そうだ、秋になって、神田君に写真を撮って貰う時までに、ワンピースを……。
売り切れたら嫌だな。

「でも、その前にちゃんと頑張って働けば……」

頭の中から言葉が零れ落ちたように、そのまま口に出してしまった。
神田君は私の言葉に対して何も言わず、
只、私の膝に乗せてあった、ライカのカタログを手に取った。
それからカタログのページをめくって、静かに眺めながら、独り言のように言った。

「買えるよ、きっと」

それ以上、私達は、ほとんど何も言わなかった。
最終電車が到着する少し前に、私達はベンチを立った。
次に会う約束もしなかったし、連絡先の交換だってしなかった。
だけれど、またすぐに会えると信じていた。

あの時、言いたかった台詞があるんだ。
だけれど言えないまま、私達はベンチを立ってしまった。
ベンチを立って、小さく手を振って、それぞれの家路へと着いてしまった。
あのね、こう言いたかったんだ。


今なら友達に、なれるだろうか。


ねぇ、神田君、私と君は、今なら友達になれるだろうか。
ねぇ、神田君、私達はあの頃より、ほんの少しでも、理解し合えるだろうか。

花柄のワンピースを着て、公園でライカ。

夏まで。

秋まで。

それぞれに決められた、それぞれの季節まで。


inserted by FC2 system