煙草を深く吸い込んで、吐き出した煙を眺める。

これは習慣だ。
細く糸を引く煙の先は、何処かに繋がって居るような気がする。
だが、何も見当たらない。
宝探しの地図を眺めるように、何度でも煙を吐き出す。
北極点から赤道を越えて、南極点まで。

ノルウェーの国旗を眺めて、ロバート・スコットは何を思ったか。
スコット隊の悲劇は、何度でも繰り返される。
灰皿には憂鬱が溜まった。





第四話 『喫煙所』



文乃には、あの日以来、会って居なかった。
元々、会う理由は無かったし、会わない理由も無かった。
今は会う理由が有っても、会わないようにしてると言った方が良い。

「その後で村上に抱かれる、私の気持ち、わかる?」

答を探してはみたが、全く解らなかった。
上手い言葉も出て来なかった。

子供の頃は、大人は悩まないモノだと信じて居た。
大人とは何なのか。
女性を抱いた事も無いまま二十歳になるのは、少し厭だった。
子供のまま、大人の仲間入りをするようで、厭だった。

体を重ねる事に、どれだけの意味が在る?
文乃から何度か携帯に連絡が届いたが、高広は返事をしなかった。
自分が酷く子供のように思えた。

憂鬱だ。

空虚だ。

無力だ。

机の引き出しの中に、鉄砲を隠し持って居ようと。

会わない内に、文乃は二十歳になり、高広も二十歳になった。
結局、何も解らないまま、大人の仲間入りをした。
堂々と酒も飲めれば、煙草も吸える。
煙草を深く吸い込んで、吐き出した煙を眺めた。


「君は何時もそうして、窓の外を眺めてるね」


喫煙所で話しかけてきたのは、ボラ男だった。
ボラ男は紺色のボーダーのシャツを着て、大量のチラシを抱えて居た。
常にチラシを抱えて居るような気がする。

「もうすぐゴールデンウィークだよ。何か予定ある?」

ボラ男の台詞がボランティア活動に導く為の発言だという事は、
誰でもすぐに気付けるだろう。
今時、ネズミ講の方が、もっと上手い誘い文句を使う。

個人の夢だとか、経済的自立だとか、国家的不安だとか、将来への展望だとか、
もう少し言葉巧みに誘えば、相手も多少は興味を抱くものだ。

不安情報の公開と、解決策の提示。
ネズミ講が成功する為に、もっとも重要なキーワードだ。

相手の夢だとか、現実だとかに対して、不安情報を公開する。
このままでは地球は駄目になりますよだとか、
このままでは国家が崩壊しますよだとか、このままでは生活に支障が出ますよだとか。
そうして相手が不安になった頃に、ようやく解決策を提示する。

ボラ男にしたって、
「空缶を拾わなければ東京湾が汚染されて、いずれは我々の健康が脅かされますよ」
くらい言えば、馬鹿な学生が少しは食い付くだろう。
「榊先生の単位に響きますよ」でも効果はあるかもしれない。

ネズミ講なんかに比べて、ボラ男の台詞が無駄に一直線なのは、
恐らくはボラ男の気持ちが一直線だからに違いなかった。

「ゴールデンウィークは、特に予定ないよ」

高広が言うと、ボラ男は素早くチラシを取り出し、それを高広に手渡した。

「これ、ゴールデンウィーク中のスケジュール。
 もし良かったら、一回でも参加してよ」

「ああ、そうね、考えとく」

高広は二本目の煙草を取り出し、火を点けた。

「君、何時もそうやって、皆に声をかけて回ってるの?」

高広が言うと、ボラ男は少し笑って「そうだね」と言った。

「僕に出来る事は、声をかけて回る事だけだからね」

「そんな事ないじゃん。自分で空缶拾ったりしてるじゃん」

「ううん、そういう意味じゃないよ」

薄い雲が見える。
窓の外に、春らしい、薄い雲が浮かんで居るのが見える。
薄く、それでも存在する事を主張するように、雲が空に浮かんで居る。

「ボランティアはね、相手に無理をさせる事じゃないんだ。
 手を引っ張って、現場まで連れて行って、無理なんてさせられない。
 誰にも、誰かを、何ひとつ強制なんてさせられないんだ」

「だから君には、声をかけて回る事しか出来ないって事?」

「そう、こういう事をしてみないかって、皆に伝えるだけだよ」

「何の為に?」

高広が言うと、ボラ男は小さく笑った。
それからボールペンを取り出して、チラシの隅に何かを書いた。


VOLO


それは四文字のアルファベットだった。
ボラ男の書く文字は相変わらず、教科書のようだった。
高広は煙草を深く吸い込みながら、そのアルファベットを眺めた。

「それ、前にも書いてたね」

「うん」

「どういう意味?」

ボラ男は、まるで家庭教師がそうするように、
高広の質問に対して、更に細かい注釈を、チラシの隅に書き加えた。
「語源」「志」「自発的」といった単語が並び、 最後に「自分から○○する」という文章が添えられた。

「ボランティアの語源は、ラテン語の VOLO なんだ。
 英語で言うと WILL と同じかな」

「私は何々するでしょう、と同じ?」

「うん、そう。
 だけれどもう少し、志しを持ったイメージが強いと思う。
 自分から望んで、それをするんだ、というイメージだね」

「へぇ」

そこまで言うと、ボラ男は楽しそうに笑った。
楽しそうに笑った後、ボールペンを指の上で回し、それから言った。

「やっぱり君は、面白いね」

「何が?」

「何事にも興味が無さそうなのに、何事にも興味が有りそうなところが」

言ってる意味がよく解らないので、高広は煙草を吸い込んだ。
それから再び、ゆっくりと吐き出す。
ボラ男はボールペンを仕舞い、右手にチラシを抱えると、立ち上がった。

「他の人が羨ましがるようなモノをさ、君は常に持ってるんだよ。
 だけれど君一人だけ、それに興味の無いフリをしてるんだ」

「へぇ」

やっぱりボラ男は笑った。
喫煙所の扉を、左手で開けにくそうに開けると、少しだけ振り返った。

「じゃあ、ゴールデンウィーク、気が向いたらよろしくね」

煙草を深く吸い込んで、吐き出した煙を眺める。

これは習慣だ。
細く糸を引く煙の先は、何処かに繋がって居るような気がする。
だが、何も見当たらない。
宝探しの地図を眺めるように、何度でも煙を吐き出す。
北極点から赤道を越えて、南極点まで。


文乃の声は、もうずっと聴いて居なかった。


目を閉じて考える。
あの日の文乃の笑顔だとか、歩き方だとか、
それから伸びた黒髪だとか、細い指先だとか、イヤラシイ声だとか、
柔らかく噛んだ白い太股だとか。

「その後で村上に抱かれる、私の気持ち、わかる?」

理解したい。
文乃を少しでも理解したかった。
恐らくはそうだった。

だけれど思い知るのだ。
自分はまだ何ひとつ知らない。
上手い言葉など何ひとつ出てこない。

携帯電話が鳴った。

携帯メールの受信音だった。
エアロスミスの受信音は、文乃からだった。
顔文字が何も使われて居ない文面は、高広への不安を訊ねて居た。

返信せぬまま、携帯を閉じると、ポケットに入れた。


VOLO

自発的に。

自分が求めるままに。


青い空が徐々に、オレンジ色に侵食されて往く。

オレンジ色は再び、青色に侵食されて、海に還る。


空気の中を、渦を巻きながら、一直線に進んで往く。

打ち放たれた弾丸が、回転して、障害や肉体を貫通して往く。

障害や肉体を貫通した弾丸は、宛も無く飛び続け、やがて海に落ちる。


文乃が汗をかきながら、実にイヤラシイ声を吐き出す。

文乃が汗をかきながら、実にイヤラシイ声を吐き出す。


果てる。

果てる。





雑音。





ゴールデンウィークの、最初の朝。





文乃は高広の部屋に居た。


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