音も無いままに過ぎて行く、全ての日々に関して。

時折、看護婦が通り過ぎる。
緑色に茂った草が、風に揺れて居る。
晴れの日と、曇りの日と、雨の日が、一定のリズムで繰り返される。
夕刻になり、食事の時間になると、人々は動き出す。
唯一の、決められた出来事みたいに。

文乃が食事をして居た。
面会時間は、午後六時半までだった。
高広は喫煙所で煙草に火を点けると、それを吸い込んだ。

文乃は一日に、何言か話す日も在ったが、一言も話さない日も在った。
文乃が何かを話す時、高広は静かに耳を傾けた。
もう何ひとつ、聞き逃さないようにした。

文乃が話す言葉は、大半が酷く抽象的だった。
核心に触れる言葉は無いはずだった。
空の事。海の事。鳥の事。魚の事。

(手紙は届かない、誰にも伝わらない)

文乃が話す言葉は、大半が酷く抽象的だった。
核心に触れる言葉は無いはずだった。
風の事。雨の事。草の事。花の事。

(蜘蛛の巣の上で、蝶は引き千切られる)

公園の砂場で山を作り、木の棒を立て、
交代で少しずつ、周囲の砂を掻き集めて、木の棒が倒れたら負けだ。
きっと、そういう遊戯に似て居た。
核心は、そこに在る。決して倒してはいけない。

文乃が呟く言葉は、それなりに溜まって往った。
砂は大半が崩れ、核心は見え隠れして居た。
確証と動機だけが、今も壁を作って居る。

(枯らせた花の種を、再び撒かなければ)

高広は煙草を吸い終えると、文乃の様子を見に行った。
食堂に、文乃の背中が見える。
窓際に座って居る。





第九話 『砂を集める病室』



雑音は、あまり無い。
配膳された食事から湯気が漂っては居たが、酷く冷めて居る気がした。
食事を終えると、文乃は席を立った。

病室に戻ると、文乃はベッドに座り、高広は椅子に座った。
壁時計の針の音だけが、厭に響いて居る。
面会時間は、残り少ない。

文乃は何も言わなかった。
本当に何も言わなかった。

時折、文乃が思い出したように呟く言葉は、文乃の中に在るグラスから、
収まり切らずに零れ落ちた、水滴みたいだった。
それは酷く抽象的だった。

気付いた事は在る。

恐らく、文乃は自分を何かに例えて居た。
自分と、自分を取り巻く周囲を、何かに例えて居た。
それは本来、直接的に会話される事象で在ったが、出来なかった。
今の文乃には、それが出来なかったのだ。

否、それは今に始まった事か?
恐らく違った。
恐らく文乃は、ずっとそうだった。


(青色を信じるのは、素敵な事よ)


空の事。海の事。鳥の事。魚の事。
風の事。雨の事。草の事。花の事。
宛の無い便箋。破り捨てられたままの封筒。
蝶を食べる蜘蛛。種を撒く風景。堕ちて往く飛行機。

何が起きたのか。

文乃が呟いた言葉を、高広は拾った。
拾った言葉の意味を、丁寧に繋げて往く。
公園の砂場で掻き集めた砂を、大切に守るように。

繋げていくと、おぼろげな意味が見えた。
公園の砂を掻き集めるように、意味を繋げると、
そこには一本の、木の棒が立って居るように見えた。

決して倒してはいけない木の棒を手に取ると、高広は理解した。

あの日。
高広の部屋で、小さなケンカをした日。
文乃は夕刻前には、高広の部屋を出たはずだった。

その前日。
恐らく、文乃は手紙を書いたのだ。

誰に? 村上に。

文乃と村上の生活時間は、あまりにも違った。
文乃は村上に別れを告げようとして居たが、言えないままだった。
そこで、恐らく、文乃は村上に手紙で別れを告げようとしたのだと思う。

文乃が家に居ない時間帯に、村上は手紙を読んだのだ。
手紙に何を書いたのかは、解らない。
少なくとも村上が納得出来る内容では無かったのだろう。

そう、文乃は、あの日、夕刻前に、部屋を出た。

家に帰り、出勤前の村上に会ったのだろう。
言い争いは在ったのかもしれないし、無かったのかもしれない。
高広には、村上がどんな人間かも、どうして文乃と付き合って居るのかも、
解らないままだった。

とにかく、去り際に村上は、文乃に何かを言った。
恐らくは、脅迫めいた言葉を、文乃に言ったのだ。
何を言ったのかは、解らない。

不安だったろう。
文乃は、高広に電話をかけた。
繋がらないので、もう一度、電話をかけた。

恐らくは、その直後に、文乃の部屋の扉が、開いたはずだ。
村上は、自分の部下に、文乃の部屋の合鍵を渡した。
恐らくは、複数の人間だったのだと思う。

彼等は文乃を殴り

クスリを嗅がせ

服を脱がせ

輪姦した。



誰も居なくなった部屋で、文乃は何を考えた?



携帯電話の着信履歴には、高広の名前しか残って居なかった。
午前五時一分。
文乃が最初に電話をしたのも、やはり高広だった。

確証は無かった。
文乃の言葉を繋げたら、そう取れるというだけの事だった。

文乃は何も言わずに、やはり窓の外を眺めて居た。
太陽は暮れかけて、濃紺の空には、月が浮かび始めて居た。

面会時間は終わろうとして居た。
高広は椅子から立ち上がると、小さく息を吐き出した。
窓の外から視線を動かそうとしない文乃の頭を、優しく撫でた。
高広は、歩きだそうとした。

不意に、文乃が呟いた。

「高広」

文乃の声に、高広は振り向いた。

「助けて」

文乃は、泣いても居なかったし、笑っても居なかった。
視線は窓の外から、動かさないままだった。
だけれど救援信号にも似て居た。










飛行機が、音も無いままに、墜落して往く。










家に帰り、部屋に篭ると、高広は電気を消した。
机に備え付けた、スタンドライトの、黄色い灯りだけを点した。
カーテンは閉じられており、酷く暗い。

心臓が音を立てる。

ドクン。

ドクン。

ドクン。

大きく一度、波打つように、鳴った。

ドクン。

全ては終わってなど居ない気がした。
只、全てが終わってしまった気がして居るだけで
事実だけを受け入れる作業に、夢中のようだった。
恐らく、ずっと、そうだった。

心臓が血液を、強く、全身に圧し出して居る。

全速力で校庭を走り抜けるイメージ。
歓声と悲鳴の中央を、突き抜けるイメージ。
目標を定め、足を高く上げ、手を強く振り、前へ。

もっと前へ。
もっと前へ。
更に一歩、前へ。

徒競走で何位になろうが、別に関係ない。
走り出したくて、仕方がない。

音も無いままに過ぎて行く、全ての日々に関して。

大地を踏み鳴らすような音を。
大地を踏み鳴らすような音を。


音を。


音を。


高広は、鍵を取り出すと、机の引き出しを開けた。

鉛色が、黄色い灯りに照らされて、厭らしいほど鈍く輝いて居た。



再び、午後七時一三分。



高広は鉄砲を持って居た。


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