幼稚な雰囲気は、キャンディ・ストアのようだった。

一粒五円の飴玉をポケット一杯に買い込んで、誰にも内緒で隠しておく。
甘さを知る瞬間は、独りを知る瞬間だった。
分け合う相手が必要だった。





第十二話 『都会と湖水』



午後九時五九分。
病室のような雰囲気の、キャンディ・ナースの小部屋では、
淫靡な声と、無駄な精液が、吐き出されて居る。
誰にも内緒で行われるべき、幼稚な遊戯。

マリモは何も言わなかった。
高広はマリモを膝の上から降ろすと、煙草を取り出した。

「煙草、吸っても良いかな」

「うん、良いけど」

馬鹿みたいに白けた空気の中で、ライターの火だけが明るかった。
小さく焦げる音がして、煙草の先端が、赤く点った。

「さっきの、どういう意味?」

「さっきの?」

「本当に欲しいのがどうとか」

マリモのナース服の、胸のボタンが外れて居る。
高広は外れたボタンに手を伸ばすと、それを元に戻した。

「手でするの、気に入らなかった?」

マリモが言ったので、高広は笑った。
空気は白けたままだったが、先程よりは随分と楽だった。

「手でされるのは気持ち良いよ。
 口でされるのも気持ち良いと思うよ。
 セックスだって気持ち良いに決まってるさ」

高広が言うと、マリモは可愛らしく、眉毛を下げた。

「困ったな、ウチの店、本番禁止なんだよ」

「そういう意味じゃないよ」

やはり高広は楽しげに笑うと、煙草を吸い込んだ。
マリモの無知や幼稚が、むしろ微笑ましくさえ感じられた。

「良いよ、もう何もしなくて」

「ちゃんとしないと、村上さんに怒られるもん」

「怒られないよ、別に」

「だって村上さんの知り合いだもん、怒られるよ」

「怒られないよ、別に」

深く、肺に煙を吸い込むと、実にゆっくりと、吐き出した。
先程まで、何時間も感じて居た圧迫感が、解けて往くような気がした。

「君、本当は何歳?」

「二十歳」

「嘘でしょ」

マリモはどうして良いか解らなそうに、酷く困って居た。
煙草を吸いながら、改めて見ると、マリモは酷く幼かった。
先程までも感じては居たが、より一層、酷く幼く感じられた。

「十七歳」

マリモが小さな声で、呟いた。
高広は短く笑った。

「村上さんに言わないでね、怒られちゃうから」

「怒られないよ、別に」

「怒られるよ」

秘密を暴露してしまった子供のように、マリモは下を向いた。
大人に怒られるのを怖れて、心の準備をしてる子供の表情だった。

怒られるのは、子供にとって何よりも怖い。
怒られない為に、子供は秘密を、ポケットの中に隠しておく。
学校帰りに、内緒で買った、飴玉のように。

「怒られないよ、別に」

高広は、繰り返した。

「怒るなら、大人が間違ってるのさ」

「大人?」

煙草の煙が天井に昇って往く。
此処には窓だって無い。
換気扇は回る。

「君が此処で働いてるのは、どうして?」

「仕事、無かったから」

「学校は?」

「行ってないよ」

高広が問うと、マリモは吹っ切れたように話し始めた。

「中学校を卒業してね、すぐに上京したの」

「へぇ」

「あんまり地元が好きじゃなかったからね」

「実家、何処?」

「北海道」

そう言うと、マリモは少しだけ、目を閉じた。

「すごい田舎でさ、ほんと厭だったよ」

「良いじゃん、北海道」

「それは住んでない人が言う台詞だよ」

マリモは笑った。
先程までとは違う、歳相応の笑い方だった。

「阿寒湖、知ってる?」

「阿寒湖?」

「えとね、湖」

「いや、ごめん、知らない」

マリモは「知らないよね」と苦笑交じりに呟くと、
大切な宝箱を、そっと開けるように、ゆっくりと静かに話した。

「阿寒の町にはね、本当に何も無いの。
 湖の在る町だから、観光客はよく来るからね、
 お土産屋さんとか、民宿とか、ホテルとかは多いけど」

「若者には、あんまり楽しめない町って訳ね」

「町にはアイヌの音楽が流れて、風に乗って聴こえてくる。
 お土産屋さんには、木彫りのアクセサリーが沢山飾られてるの。
 もちろん木彫りの熊もあるよ」

「あの、鮭とか咥えてる?」

「そう、鮭とか咥えてる」

「あれ、貰っても置く場所に困るよね」

「ね!困るでしょ!」

そこまで話すと、マリモは楽しそうに笑った。
時折、窮屈そうに眉をしかめながら話すけれど、
故郷を馬鹿にしたような話し方には見えなかった。

「何かね、何時も灰色なの」

「何が?」

「何がって言うか、町全体が」

高広は笑いながら「町の人に怒られるよ」と言ったが、
マリモの言い方には、嫌悪よりも望郷の想いさえ感じられた。

「阿寒湖がね、寂しいんだよ、きっと」

「阿寒湖が寂しい?」

「何かね、何となく、寂しいんだよね」

マリモは短く言い終えると、自分の掌を見た。
恐らくマリモの目には、今、寂しそうな阿寒湖が見えて居た。
それは冷えた思い出のようでも在るが、澄んだ湖水のようでも在った。
アイヌの音楽が、風に乗って流れて居る。

「それが厭で、東京に出てきたの?」

「うん、厭だったね」

それ以上、マリモは何も言わなかった。
中学を卒業して、すぐに上京したくなるほど、マリモが切羽詰って居たとは思わない。
退屈は刺激を求めるし、刺激は欲望を求めるものだ。
ところが問題なのは、マリモは今でも退屈そうだった。
マリモは自分の掌を眺めて居た。

「あ、思い出した」

突然、高広は言った。

「阿寒湖って毬藻で有名なトコでしょ」

マリモは掌から視線を上げると、
垂れ目気味の目を大きく開いて、高広を見た。

「うん、そう、よく知ってるね」

「だから君、マリモなの?」

マリモは小さく笑った。

「毬藻はね、すごく綺麗な水の中でしか育たないの。
 すごくすごく綺麗な湖の水の中でね、湖の底に転がってね、
 何年も、何十年も、何百年もかけて、やっと大きな丸になれるんだよ」

「汚い水だと育たないの?」

「汚い水だと育たないよ」

「へぇ」

換気扇が静かに回る音が聴こえる。
煙草の煙が音も無く吸い込まれて往く。

幼稚な雰囲気は、キャンディ・ストアのようだった。

一粒五円の飴玉をポケット一杯に買い込んで、誰にも内緒で隠しておく。
甘さを知る瞬間は、独りを知る瞬間だった。
分け合う相手が必要だった。

「君は丸くなれるの?」

高広が呟くと、マリモは自嘲気味に小さく笑った。

「無理」

「どうして?」

「綺麗な水の中じゃないと、丸くはならないんだよ」

「まるで自分が汚れてるみたいに言うね」

「汚れてるよ」

高広は小さく笑った。
マリモは静かに顔を上げると、高広を見た。
高広は大きく息を吐き出すと、思い出したように言った。


「東京湾は青色か?」


マリモは高広の顔を見て、頭をひねった。
小難しい抜き打ちテストを受ける小学生のような表情だった。


「何それ」

「東京湾じゃ、毬藻は育たない?」

「無理」

「汚れてるから?」

「汚れてるから」


高広は二本目の煙草に火を点けた。
小さく吸い込むと、すぐに吐き出した。
換気扇は、再び静かに回り始めた。


「汚れてるなら、どうするの?」

「何が?」

「毬藻を育てたいけれど、汚れてるから無理だと思うの?
 毬藻を育てようなんて、初めから思わなければ良かったの?
 毬藻を育てたいならさ、汚れてる事を認めちゃいけないんだよ」

「東京湾じゃ育たないよ」


マリモは自嘲気味に笑った。
マリモは自嘲気味に笑ったが、すぐに自分の掌を見た。
マリモは自分の掌を見たまま、もう顔を上げようとはしなかった。


「東京湾が汚れてるのは、君のせい?」

「私のせいじゃないよ」

「君のせいじゃないなら、そんな顔するなよ」

「初めからこんな顔なんだよ」


ボラ男を思い出した。
ボラ男が空缶を拾い集める光景を思い出した。
ボラ男が空缶を拾い集めながら、笑って居る光景を思い出した。


「東京湾で空缶を拾ってる奴が居るよ。
 東京湾で空缶を拾ったって意味なんて無いよね。
 東京湾が汚れ続ける事には、大して変わりが無いんだから」

「だから東京湾じゃ毬藻は育たないよ」

「それでもね。
 もしも。
 もしもだよ。
 東京湾で毬藻が育てられる日が来たとしたらだよ。
 まるで意味が無かったはずの事にも、立派な意味が出来るよな」

「やっぱり無理だったら?」

「さぁね」


高広は煙草を深く吸い込んだ。
少しの間、肺に溜めると
続けてそれを、深く吐き出した。


「その時は、泣いて悔やめば良いと思う」

「適当」


マリモは納得いかないように笑った。
高広は笑いながら「適当なんだよ」と楽しそうに言った。
別に説教染みた話をしたかった訳では無いし、実際に適当だった。


「汚れてる事を、正当化するなよ」


高広が言うと、マリモは頷いた。
続けて言った。


「汚れる事も、正当化するなよ」


高広が言うと、マリモは頷いた。
続けて言った。


「汚す事も、正当化するなよ」


小部屋に、電話の音が鳴り響いた。
退室五分前を告げる、フロントからの電話だった。

マリモは立ち上がると、ナース服のシワを整えた。
それから高広のTシャツを拾い上げ、高広に着せた。
部屋を出る直前に、靴を履きながら、マリモに訊いた。

「店、何時までだっけ?」

「十二時」

マリモは首を傾げて「また来るの?」と言った。
高広は笑いながら「村上さんに会いにね」と言った。
マリモは子供っぽく笑った。

「あ、そっか」

マリモは愉快そうに笑うと、先程の台詞に一言を付け加えた。

「だけど村上さんは十二時に終わらないよ。
 店を出るの、皆が帰ってから、一番最後だからね」

「あ、そう」

マリモの台詞を聞くと、高広は笑った。
笑ったと言うには、鈍い光を包んだ笑い方だった。

「村上さんが戻って来ても、僕の事は内緒にしておいて。
 いきなり久し振りに会って、驚かせたいからさ」

「うん、わかった」

短く言い終えた後で、可愛らしく手を後に組みながら、
似合わないナース服を着たマリモが、不思議そうに言った。

「でも村上さんの知り合いって感じ、あんまりしないなぁ」

「よく言われるよ」

高広は、適当な返事をして、笑った。

マリモは「あ、そうだ」と言いながら、
思い出したようにナース服のポケットに手を入れると、
一枚の名刺と、一粒の飴玉を、高広に手渡した。
可愛らしい手書きの文字で「マリモ」と書かれて居る。

「お土産なの」

何故か照れくさそうに言う。
高広は笑いながら受け取ると、それをジーパンのポケットに入れた。
カーテンを開けて店を出ようとする直前、何故か気になった。
不意に振り返り、マリモを眺めて、言う。


「君の本当の名前、何?」


マリモは少しの間だけ考えると、黙って高広に唇付けをした。


「そりゃ、良い名前だね」


マリモは実に子供らしく笑った。
それから小さく「またね」と言って、カーテンを閉じた。

フロントには先程と同じ男が立って居た。
通り過ぎる瞬間に顔を見ると、同い年くらいだった。
恐らく村上では無いと思うと、何故か酷く安心した。

エレベーターのボタンを押して、乗り込む。

音も無く下がるエレベーターの中で、高広は、先程の台詞を思い出した。
自分が言った台詞を思い出した。
それから、言おうとしたけれど、やっぱり言わなかった台詞を思い出した。


「だけどね、毬藻を育てる為に、精一杯になったならば
 形には残らなかったとしても、毬藻は育ったんじゃないかな」


音も無く下がるエレベーターの中で、高広は静かに呟いた。


「自分の中で、真ん丸に育ったんじゃないかな」



午後十時二七分。



馬鹿らしい独り言に、高広は、一人で笑った。


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