病室に着くと、ミサエは眠りに就いて居た。

タダオは普段通り壁に立てかけたパイプ椅子を取り出すと、
その上に浅く腰をかけて、足を組んでから新聞紙を広げた。
タダオが好きだったプロ野球選手が、渡米した記事を読む。
何かに挑戦するというのは、そんなにも偉い事なのか?

時計の秒針の音と、看護師が遠くを歩く音と、ミサエの寝息が聴こえる。

ミサエの体から発見された悪性の細胞は、
正に今も、ミサエの体を蝕んでは居るのだろうが、
それが先日、突然、ミサエの体を蝕み始めた訳では無く、
あくまでも発見するべき原因と過程を発見されたに過ぎなかった。

「タダオ、来てたんだ」

ミサエが目を覚まして、タダオに声をかけた。
タダオは新聞紙から視点を外すと「今さっきな」と言った。

「手術、何日?」

「24日」

「クリスマスじゃん」

「クリスマス・イブだけどね」

ミサエは至って普段通りに過ごして居たし、
タダオは至って普段通りに過ごして居た。

普段通りという事が「特別な時間」と正反対に位置するならば、
それは普段通りと呼んでも差し支えの無い時間だった。

ミサエにとって特別な時間とは何なのか。
数日後に控えた手術は特別な時間になるだろうか。
何かに挑戦するというのは、そんなにも偉い事なのか?

真っ赤なストラトが好きだった。
そして、それは只、それだけの事だった。
変な犬の置時計は渡せなかった。
そして、それは只、それだけの事だった。

「ねぇ、タダオ、雪降ってるよ」

雪は会えなくなった恋人との再会に似てる。

窓の外に降り積むソレに手を伸ばしても、届く事は無く、
只、一粒一粒は溶け逝きながらも、薄い絨毯を残して往く。
溶けずに地面に根付いた、最初の一粒を見てみたい。
ソレはきっと、会えなくなった恋人の欠片だから。

「ああ、本当だ」

「何時かは溶けて消えちゃうのかな」

「さあね、今はまだ、地面に降り落ちてる最中だ」





#7『現在・僕達(An Amusement Park.)』



ミサエは窓の外を見たまま、動かなかった。
普段通りだ。
普段と何も変わる事なんか無い。

タダオは窓の外を見たまま、動かなかった。
普段通りだ。
普段と何も変わる事なんか無い。

「24日は、ライブだよ」

「誰の?」

「軽音サークル」

「嘘、聞いて無いよ」

「本当、言ってなかっただけ」

「ふぅん……」

それ以上、ミサエは何も言わなかった。
それは普段通りにしては、異質な反応だった。

「酷いよな、お前の手術の日なのに」

タダオは自分から、話を掘り下げた。
ミサエは笑いながら「仕方ないじゃん」と言った。

「手術が決まった日の方が、ライブが決まった日より後だからね」

「そういう問題じゃないだろ」

「そういう問題だよ」

ミサエは座りながら棚に手を伸ばすと、マグカップを取ろうとした。
タダオは立ち上がると、ミサエより先にマグカップを取った。
ミサエは照れたような笑い方をしながら「ご苦労」と言った。

「紅茶」

「紅茶?」

「紅茶、飲みたい」

「あ、買ってくんの忘れた」

「え〜」

ミサエは「何時も買って来てんじゃん」と不貞腐れたが、
それ以上、しつこく食い下がるような真似はしなかった。

「自販機で買ってくるわ、何飲みたい?」

「紅茶」

「ホットとアイスがございますけど」

「ホット」

タダオは病室を出ると、自販機に向かった。
細い通路を曲がるとナース・ステーションが見えた。
その奥で女性の看護士達が、何かを持ちながら話して居た。

エレベーターの近くに二台の自販機が設置されており、
一台は普通の缶ジュースで、一台は紙コップの自販機だった。
タダオは紙コップの自販機に小銭を入れると、紅茶のボタンを押した。

静かな通路に機械音が響いた。
紅茶が注がれるのを待って居る瞬間、
ちゃんと紙コップがあるか、少し不安な気分になる。

音が鳴り止むと、周囲は酷く静かになる。
不意に、ミサエと隠れて煙草を吸った、地下の倉庫を思い出した。
至極最近の出来事だったはずだが、随分と昔の事のように感じられた。

紙コップを手に、来た道を戻ると、
ナース・ステーションに、先程の看護士達は居なかった。
紙コップの中で、紅茶が、円を描くように揺れて居るのが見えた。

「ほれ」

病室に戻り、ミサエに紙コップを手渡す。
ミサエは嬉しそうな表情で紙コップを受け取ったが、
その中身を確認すると、眉間にシワを寄せながら訴え始めた。

「ミルク・ティーじゃないじゃん!」

「ミルク・ティーじゃないよ」

「ミルク・ティーが良かったのに!」

「お前、紅茶って言ったじゃん」

「紅茶と言えばミルク・ティーでしょうが!」

「紅茶と言えばレモン・ティーしか在り得ません」

ミサエは「くそぅ……」と呟きながら、レモン・ティーを飲んだ。
そもそも普段、タダオが買って来るのはレモン・ティーだったから、
今日に限って気を利かせてミルク・ティーを買って来るような男では無い。

問題なのは、今日に限って、何故それを買い忘れたのかという事実だ。
他に気がかりな事でも在ったからだろうか。
無かったと言えば嘘になる。

「手術はさぁ……」

両手で紙コップを持ちながら、ミサエが呟いた。

普段通りの表情と言い、先程の大きな声と言い、
ミサエが病人だという事自体、嘘のようだ。
手術を控えるほど病気が進行してるなんてのは、
それこそ悪い冗談のようだ。

「何?」

「手術はさぁ……成功率90%なんだって」

「高いね」

至極平坦な声で、タダオは言った。
当然と言えば当然の事のように思えたからだ。

あの春の日。
入学式の日の朝に、ミサエが倒れてから今日まで。
何度も入退院を繰り返し、何度も精密検査を重ねてきたはずだ。
悪い細胞が表面に現れ始めたからと言って、早期発見には違いない。

何よりミサエは若い。
若さは病気の進行を早めるという噂を聞いた事はあるが、
早期発見ならば、体力がある内に、早期治療も出来るという事だろう。

「でもね、タダオ」

ミサエは紙コップを持った両手を腹に置くと、窓の外を見た。
窓の外では綿のような粉雪がゆっくりと舞い降りており、
それは春の終わりの花びらにもよく似て居た。

「もしも手術が成功しなかった場合はね、その後の生存率が10%なの」

「何それ」

「何だろうね」

ミサエは紙コップの中の液体を飲み干すと、笑った。
それから「良かった、ちゃんと言えた」と言って、また笑った。
タダオは新聞紙に手を伸ばそうとしたが、何となく止まってしまった。

「だからタダオは、アタシをもっと大切にせんとイカンよ」

「成功率が90%もあって、死ぬかよ」

「まぁね〜」

新聞紙の一面には、タダオが大好きだったプロ野球選手が、
メジャーリーグに挑戦する記事が、連日のように踊り続けて居る。
何かに挑戦するというのは、そんなにも偉い事なのか?

何かに挑戦しなくとも、ずっと此処に居て欲しかっただけだ。
日本のプロ野球で活躍して欲しかっただけだ。
此処に居て欲しかっただけだ。

何かに挑戦しなければ、此処に居る事も出来ないとしたら?

「ねぇ、タダオ、遊園地好き?」

「遊園地?」

「昔、何回か行ったじゃん」

タダオが記憶の坂を下ると、幼いミサエを発見した。

ミサエは真っ赤なスカートを着て、
何処かのベンチでソフトクリームを食べて居る。
遠くではメリー・ゴーラウンドが音を立てながら回って居る。

「お互いの親と一緒にな」

「昔、何回か行ったよね」

「小学校に上がる前の話じゃないか」

「小学2年の夏が最後よ」

ソフトクリームを食べるミサエの顔は、近い。
恐らく記憶の中のタダオは、ミサエのすぐ横に座って居る。
ミサエのソフトクリームを見て「一口くれ」と言ったような気がする。


(駄目)

(何でだよ?)

(駄目)

(だから何でだよ)

(タダオだから)

(関係ないじゃん!)


結局、あのソフトクリームは、一口もらえたのか?

よく覚えてない。
ミサエがタダオを見て、嬉しそうに笑ったのは覚えて居る。
アホみたいに口の周りをソフトクリームだらけにしながら、ミサエは笑った。

「で、遊園地がどうしたって?」

「遊園地、好き?」

「嫌い」

タダオが言うと、ミサエは楽しそうに笑った。
何かを思い出すように「そうだよねぇ……」などと呟く。
何とも小憎らしい顔だ。

「タダオ、泣いたもんね」

「ボクが?」

「身長が足りなくて、ジェット・コースターに乗れなくて」

「泣いてないよ」

「泣いたよ」

泣いた記憶は無い。
泣いてない記憶も無いけれど。

ジェット・コースターに乗れなかった事は覚えてる。
タダオもミサエも子供過ぎて、ジェット・コースターには乗れなかった。

長い列に並んだ記憶はある。
親は初めから「乗れない」と言って止めた記憶もある。

それでもタダオとミサエは長い列に並んだ。
乗れない理由が解らなかったから確かめたかった。
並んでる途中で、遊園地の若い男の従業員に止められた。
それ以来、遊園地は嫌いになった。

「アタシね、あの後、初めてジェット・コースターに乗ったの」

「へぇ、何時?」

「高校二年の時に、初めて彼氏が出来た時に」

「ああ、名前なんて言ったっけ」

「それはともかく」

ミサエは少しだけ俯いたような表情をした。
それは記憶を掘り下げて居るような表情にも見えたし、
今から言うべき事を頭の中で確かめて居るような表情にも見えた。

「全然、楽しくなかったよ」

「何で?」

「すごく怖くてね」

ミサエの口元は笑ってるように見えたが、
それは過去の記憶をなぞって笑って居る訳ではなくて、
今から成すべき事を頭の中で確かめて居るような笑い方だった。

「ねぇ、タダオ。
 ジェット・コースターの怖さって何だと思う?
 猛スピードで走ったり、逆さになったりする事だと思う?

 違うのよ、タダオ。
 一回、それが走り出しちゃったらね、
 猛スピードだとか、逆さになる事なんかね、一瞬なのよ。

 一番怖い事はね、タダオ。
 もしも肩のベルトが壊れて外れたらどうしよう、だとか、
 もしもジェット・コースターが脱線して落下したらどうしよう、だとか、
 そういう自分の中から沸き起こる、悪い予感だと思うの」

「悪い予感?」

「ジェット・コースターなんて安全だよ。
 小学生のタダオが乗せてもらえなかったくらいだからね。
 毎日、安全点検してるだろうし、故障なんて滅多にしないでしょう。

 だけどね、もしも、もしもだよ。
 もしも自分が乗ってる時に、落ちたり、壊れたりしたら、
 もしも、万が一、悪い予感が当たったら、どうしようって考えるの」

そこまでを一気に言うと、ミサエは黙った。
下を向いたまま、自分の胸元を見た。
胸元に、数滴の染みが出来た。

ミサエは泣いて居た。
解かれた糸のように、酷く静かに泣いて居た。
もしも雪が泣くとしたら、きっとミサエのように泣くだろうと思った。

「怖いよ、タダオ、どうすれば良い?」

雪は降り続けて居る。
窓の外で、音も無く、振り続けて居る。

ソレは枯葉よりも静かで、生命よりも穏やかだ。
目的も理由も存在しない。

只、降り落ちる為に、降り落ちる。



只、降り落ちる為に、降り落ちる。



只、降り落ちる為に、降り落ちる。



「一瞬なんだろ」



タダオはパイプ椅子に背中を預けると、
背中越しに窓の外を睨み付けるように呟いた。
それからミサエの目を見て、大きくも小さくもない声で、
もう一度確かめるように「一瞬なんだろ」と言った。

「じゃあ、その瞬間だけ、本気で目を瞑っちまえ」

「……目を?」

「そして次に目を開ける時の事だけ考えてくれよ」

「どういう意味?」

窓一面に、大粒の雪が浮遊するように舞い降りて居た。
タダオは目を閉じると、膝の上で手を組んだ。
それから出来得るだけ穏やかに言った。

「一瞬の全てを見ようとするなよ。
 一瞬の後に訪れる、ミサエが見たい風景を見ろよ。

 考えるんだよ。
 ジェット・コースターを降りた後の事をさ。
 ジェット・コースターを降りた後は、何に乗ろうかってさ。

 じゃあ、そもそも、わざわざ、何の為に、
 ジェット・コースターに乗らなきゃいけないのか解らないけどね。

 ジェット・コースターに乗らなきゃ、次に進めないのさ。
 此処は変な遊園地だからね」

「変な遊園地?」と言うと、ミサエは少しだけ笑った。
タダオはゆっくりと目を開くと、そのままミサエの目を見た。
ミサエは泣いてる最中だったけれど、目を逸らそうとはしなかった。

「そう、変な遊園地。

 くだらない遊園地だよな、思うように遊べないし。
 子供には乗れないモノもあれば、大人には乗れないモノもある。
 楽しみに何時間も並んで乗ってみたら、意外と楽しくなかったり、
 暇潰しに乗ってみたら、意外と楽しかったりするんだよ。

 随分と身勝手な遊園地だぜ、こんなモン。
 そしてお前は、今、ジェット・コースターに乗せられる訳。

 だけどね、目を瞑ったって良いんだぜ。
 怖いモンまで全て目に焼き付けなきゃいけないルールがあるなら、
 そんなモン、ボクは鼻で笑ってやるよ。

 大切なのは、今、ジェット・コースターに乗る事なんだから」

雪を眺めるミサエの背中は、無垢な少女のようだ。
まぁ、実際は無垢な少女なんて事は無く、単なる幼馴染だけれど。
その背中を何度も眺めてきたけれど、触れる事なんて在り得なかった。

「ミサエが目を開いたら、ボクが馬鹿にしてやるよ」

「……馬鹿に?」

「うわ、ダサ、びびってやんの!とか言ってな」

「酷い!」

そう叫ぶとミサエは、布団の中に潜り込んだ。
布団の中から「本気で怖いって言ってるのに」という声が聴こえた。
それから「タダオのアホ〜」という、普段通りの恨めしそうな声も聴こえた。



ミサエを失うということ。

よく解らない。

考えた事もなければ、感じた事もない。


ミサエに恋人が出来た時にも。

ミサエと別々の進路を選択した時にも。

ミサエが入退院を繰り返すようになった時にも。


ミサエを失うということ。

よく解らない。

考えた事もなければ、感じた事もない。


ジェット・コースターなんか、乗る必要がなければ良いのに。

ボクラが子供のままで、もしも身長が足りなければ、

ボクラを誰かが止めてくれるのだろうか。


何かに挑戦する事は、そんなに偉い事なのか。

なぁ、ミサエ、ずっと此処に居てくれないか?

何かに挑戦しなければいけないならば。

一体、ボクは何をすれば良いんだ?



「タダオだったら良かったのかな」

布団から半分だけ顔を出して、ミサエが言った。

「何が?」

「高校二年の時に、初めて一緒にジェット・コースターに乗った相手が」

「ボクはその頃、ギターばっかり弾いてたからな」

「隣に居れば怖くなかったかもね」

ミサエは天井を見たまま、少しだけ笑った。
タダオは釣られて天井を見ながら、小さく息を吸い込んだ。
ミサエが不意に思い出したように「あ、でも駄目だな!」と言った。

「タダオ、瞳、青くないもん」

「何を今更」

「アタシと一緒に歩く人は、青い瞳じゃなきゃ駄目なの」

「今まで散々、一緒に歩いたけどな」

「外人じゃなきゃ駄目なの」

「ポエマーだな」

言い終えると、タダオは笑った。
タダオが笑ったので、ミサエも笑った。

大きく息を吸い込んで、吐き出すように笑った。
その度にミサエの胸が上下して、大袈裟に呼吸を重ねた。

ミサエの体から発見された悪性の細胞は、
正に今も、ミサエの体を蝕んでは居るのだろうが、
それが先日、突然、ミサエの体を蝕み始めた訳では無く、
あくまでも発見するべき原因と過程を発見されたに過ぎなかった。

雪は止む事を知らず、降り落ちて往く。

タダオは、随分と久し振りに、作り笑いをした。

落下するジェット・コースターの上で、ほんの一瞬、全てを忘れるように。



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