■ま行
窓辺のヘルス




今朝はKANの『健全・安全・好青年』で目が覚めた。

私は毎朝、音楽で目覚める。
私の布団ベッドは窓辺に置いてあり、そこで私は目覚める。
ところが今朝は目覚めるにあたり、微弱な違和感を覚えずにはいられなかった。
KANの『健全・安全・好青年』の軽快なメロデイと共に、恨めしげな女の声が聞こえたからである。
私は思わず、己の眼を開く事を躊躇したが、目覚めているのに瞼を閉じたままなのは、
どうにも不自然な行動であるからにして、自然の法則に従い、瞼を開ける決意をしたのである。

すると窓辺には、美少女という名詞で表現するのは陳腐に感じる程の、
美少女という名の美少女が座っていた。この場合、美少女という単語は修飾語である。
要するに「美少女な美少女」が座っていたのである。

美少女は窓辺から少し身を乗り出して、
覗き込むようにして私を見詰めながら、口元で何かを言っている。
もしかしたら今はまだ夢の最中で、実は目覚めていなかったのではないかと考えたが、
美少女の艶やかな黒髪が私の鼻先に垂れてきて、非常にこそばゆいので、夢じゃないと気付いた。

夢じゃないならば、この状況は何だろうと考えた頃に、
KANの『健全・安全・好青年』は、その曲の終盤に差し掛かっていた。

「君 シャツが出てるぞ 何だ 出してるのか」

KANの歌声に被さるように、美少女の声が聞こえた。
美少女はKANの『健全・安全・好青年』を所々、口ずさんでいるのだ。
そこで私は漸く「成程、是はKANの曲に悲しい思い出を残した、幽霊の類だな」と思うに至った。

幽霊の類であるならば、この理解し難い状況の説明が付くような気はする。
問題なのは私自身が幽霊の類の存在を認めていないという点のみで、
それ以外の理由で美少女が私の部屋の窓辺に座りKANを口ずさむ理由は無いのだ。

幽霊の類であるならば胸の内で「成仏してくれ」と唱えれば良いのだろうか。
ところが、この美少女たる美少女があまりにも美少女なので、唱える気が失せる。
別に金縛りに遭っている訳でもなく、私は只、窓辺の美少女を見詰めているだけである。
ならば別にこのままでも良いではないか。

私は布団から起き上がると、台所に向かい、ベーコン・エッグを作った。
それから顔を洗い、歯を磨き、ビジネス・スーツに着替えた。
この間も美少女は、窓辺で何かを呟いている。

まったく何の害も無い。
むしろ、このまま居座っていて欲しいくらいだ。
疲れて家に帰ってきた時に、美少女が窓辺にいるなら、癒される。
壁に売れないグラビア・アイドルのポスターを貼るより、よほど良いではないか。

まったくもって健全でも安全でも好青年でもない私は、
こうして美少女の幽霊的な美少女を呼び寄せてくれたKAN様に感謝して、
このまま美少女たる美少女が消えないでいてくれる事を祈りながら、家を出たのである。

仕事中も美少女の事が気になって仕方が無く、
まるで新しいドラクエを手に入れた子供のように、美少女の事を考えた。
ああ、そういえば美少女の幽霊的な美少女に触れる事は可能なのだろうか、だとか、
可能ならば是はもう多少の性的な悪戯を実践してみるのも良いではないか、だとか、
否、その場合、美少女の幽霊的な美少女に、人権は存在するのだろうか、だとかを考えた。

仕事を終えると真っ先に会社を出て、急ぐ必要も無いのに急いで定期を見せ、
電車の中でも意味も無く足踏みをしているほどの私だったのが、
それはまるで中学時代の友人から過激なアダルト・ビデオを借りた日の私のようであり、
その時点で私は美少女の幽霊的な美少女に性的な興味をしか抱いてない事実に気付いて驚いた。

我ながら何と情けない男であろうか、と考え、
私はもっと真摯に美少女の幽霊的な美少女と向き合わなければいけない、と考え、
あの美少女たる美少女は、どうして幽霊的な美少女なのだろうか、その理由は何だろうかと考え、
もしもその原因にKANの『健全・安全・好青年』に纏わる、辛く悲しい思い出が関係しているならば、
私はその傷もろとも、美少女たる美少女を包み込んで愛さなければならない、と考えたのである。

そこで私は帰り道の途中で中古のCDショップに立ち寄り、KANの『愛は勝つ』を買った。
この曲を美少女たる美少女に聴かせ、その傷を癒し、私と美少女の固い信頼関係を築き、
しかる後に私と美少女はベッド・インすべきなのである。

そこでもう私は残りの帰り道ともなると股間を膨張させ、
一分一秒でも早く家の扉を開けたくて仕方が無くなり、ポケットより鍵の束の取り出し、
人差し指上にて意味も無くクルクルと旋回させながら、至って冷静を装って商店街を歩いた。

私はマンションの前に辿り着いた。
だけれど何だか私の知っているマンションでは無い気がした。
カカカカカンカンとマンションの階段を登り、扉の前に辿り着くと、
私は鍵穴に鍵を差し込もうとして二度ほど失敗した後、正しく差し込む事に成功し、
それから階段の踊り場にある大きな窓から、月光が差し込んでいる事に気が付いた。
そうして震える指にて開錠し、夜風で冷えたドアノブを半回転させ、その扉を開けたのである。

「今夜 君はとてもおしゃべりだね」

部屋から聴こえてきたのは、美少女の声ではなかった。
エンドレス・リピートしたままの『健全・安全・好青年』であった。
私は今朝方、家を出る時に、この曲をかけたままにして家を出ていたのだ。
この曲を消してしまったら、美少女も消えてしまう気がしたからだ。

「身振り 手振り とても楽しそうに話すから」

美少女は何処にもいなかった。
窓は開け放たれており、カーテンが揺れていたが、部屋が荒らされた様子はなかった。
部屋は普段通りの部屋で、他に異常もなく、昨夜までと何も変わらない、普段の私の部屋だった。

「練習してきた 大事な台詞も とても言えそうにないね 今夜」

美少女だけが、何処にもいなかった。
KANのエンドレス・リピートがサビに差し掛かった頃に、何故だか、私は泣いた。
ところが何に泣く必要があるだろうか?
何を得た訳でもなければ、何を失った訳でもないはずなのに、私は泣いていたのである。

美少女は、何だったのだと思う?
幽霊の類でも何でもなく、単なる美少女だったのではないか?
それともやはり美少女は、美少女たる美少女の、美少女な幽霊の類だったのだろうか。

「君の日記に 今夜 僕はどんな風に書かれるんだろう?」

健全・安全・好青年の歌声は止まらず、夏の始まりの夜に響いていた。
私は手の中の紙袋から一枚のCDを取り出すと、また泣いた。
嗚呼、美少女よ、幽霊でも何でも良い。
私の記憶の中の君よ。


音楽を止めた。


その夜、私はKANの「愛は勝つ」を大音量で聴きながら、布団の中でオナニーをして眠った。

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