歩道橋を、僕は歩いて居た。

何年間も其処に在る歩道橋は、名物と言う程では無いけれど、
何年間も其処に在る事が当たり前だったし、
歩道橋から眺める一直線に伸びた道路は、絶景と言う程では無いけれど、
僕は此処から見える風景が大好きだった。

三車線の道路の左端を、真赤なバスが通過して往く。
一直線の先端には、町並と青空と山脈が見える。
山脈は酷く遠いけれど、手を伸ばせば届くような気がする。

同じ理屈で、青空に穴を空けたように張り付いて居る太陽にも、
手を伸ばせば届くような気がするけれど、熱そうだから止めておいた。

とは言っても。
最近の太陽は幾らか温度を下げたように見える。
数週間後には訪れる冬の準備を、今から始めて居るような気もする。

街路樹の葉は、紅く染まり、枯れ落ちて居る。
僕は灰色のパーカーのポケットに手を入れると、息を吐いた。
まだ白くは無い。

歩道橋が素晴らしいのは、ほんの少しの間だけ、
僕の生きて居る世界から、隔離された気分に浸らせてくれるからだ。

数年前に市長が変わり、 市が道路整備に力を入れるようになって、
この道路にも人並みに押しボタン式の横断歩道が出現してからは、
上空に架かる古くて鉄臭い橋を使う人は少なくなった。

歩道橋が撤廃されないのは、単なる予算の都合だろう。





第一話 『歩道橋(赤)』



僕は毎日、この歩道橋を歩く事にして居る。

彼方から、此方まで。
この橋を渡る、ほんの少しの間だけ、僕は無敵な気分に浸る。
誰からも、何からも、影響されず、非難されず、僕だけの世界に浸る。

僕の足下を大型トラックが通過した。
其れから深緑色のミニ・クーパーが通過した。
押しボタン式の横断歩道の信号機が、赤から青に変わり、
僕の足下を待ち疲れた人達が歩き出した。

歩道橋の中央まで歩いた頃に、
向こう側から歩いて来る女の子が見えた。
足早に階段を駆け上がると、一直線に向かって来る。

彼女は秋色の厚手のワンピースを着て、
栗色の髪を揺らしながら、重そうなブーツで音を立てるように走った。
肩から斜めにかけられた布製の大きな鞄も、同じようなリズムで揺れた。

僕は、僕の世界に土足で(しかも重そうなブーツで)立ち入られたような、
不愉快な気分になったけれど、まぁ、公共の歩道橋なのだから仕方が無い。

休日にバイトに出てくれと頼まれた時のような、
何となく釈然としない納得感を抱きながら、僕は彼女を眺めた。
彼女は僕と同じ年頃のようにも見えたし、僕より少しだけ幼くも見えた。

擦れ違う瞬間に、彼女と目が合った。

彼女の目は赤かった。

恐らくはカラー・コンタクトだろうけれど。

重たいブーツの音が遠ざかると、僕は息を吐き出した。
やはり白くは無い。
世界は再び安定を取り戻した。
全てのカオスはコスモスに移行するのだ、などと、
最近読んだ何かの本の影響を受けたような、稚拙な事を考えた。


「漫画喫茶、何処?」


突然、背後で声がした。
思わず変な声を挙げそうになりながら、振り向く。
其処に彼女が立って居た。

「え?」

「漫画喫茶、何処?」

「漫画?」

「漫画喫茶、何処?」

彼女は一直線に(あの赤色の目で)僕を見ながら、
同じ台詞を何度も繰り返した。少しだけ苛立ってるようにも思える。
僕は彼女の台詞を脳内で租借しながら、三度目にして意味を理解した。
成程、彼女は漫画喫茶に行きたいのだ、と。

「この辺に在る漫画喫茶?」

「だから、そう言ってるじゃん」

彼女は数年来の友人か、冷めた関係の家族にでも言い放つように、
一般的な表現で言うならば、失礼な態度で、至極感情的に言った。

「この辺の漫画喫茶なら、少しだけ歩きますけど、
 此処を降りたら右に曲がって、途中でコンビニが見えるから……」

其処まで言った所で、彼女は僕の台詞を遮った。

「君、暇?」

「え?」

「君、暇?」

「いや、忙しくは無いけど」

彼女は僕に背中を向けると、首だけで振り返り、
僕の目を(勿論、あの赤色の目で)見ながら、こう言った。

「じゃあ、一緒に行こう」

彼女が漫画喫茶に行きたい理由も解らなければ、
僕が彼女に付いて行かなければいけない理由も解らない。
確定してるのは、僕に、特に断る理由が見当たらないという事だけだ。

彼女は僕の返答を待たずに、歩き始めた。
僕は歩道橋の中央で立ち止まり、彼女の背中を眺めた。
僕の足下を黒色のキャデラックが通過したような気がするけれど、
心底どうでも良い事だった。

「何やってんの? 話、聞いてた?」

彼女が階段から、僕に叫んだ。
其れから、何事も無かったかのように歩き始めた。
僕にも何故だかよく解らないのだけれど、僕は彼女の背中を追った。

僕の世界は呆気なく崩壊し、
僕の歩道橋には、彼女の重たいブーツの足跡が残された。

足早に階段を降りながら、僕は彼女に訊ねた。

「どうして漫画喫茶に行きたいの?」

彼女は至極当然の事のように、僕の目を見て言った。

「最終兵器彼女の続きが読みたいから」

僕は笑いもせず、怒りもせず、泣きもせず、
もちろん共感もせず、理解もせず、只、何となく、本当に、何となく。

「へぇ」

と言った。



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