肝心の漫画は、レジ・カウンターの隣に並んで居る。

喫茶店に置かれる漫画の量として見れば異常だけれど、
漫画喫茶に置かれる漫画の量として見れば微少だった。

数列の棚が男性向け漫画と女性向け漫画に分けられて居る。
棚は出版社毎に分類され、其処から更に作者名で分類される。
探して居る漫画の題名が『最終兵器彼女』な訳だから、
サ行で探せば簡単なのに、ご丁寧に作者名で分類されて居る。

有名な作家の漫画なら便利だが、
普通に考えると作者名から目的の漫画を探す方が面倒だ。

例えば其れが手塚治虫ならば、作者名で並んで居た方が便利だ。
『鉄腕アトム』と『ジャングル大帝』と『三つ目が通る』と『火の鳥』を、
わざわざ別々の棚から探し出す方が面倒だ。

大抵の漫画の作品名と作者名を同時に答えられる人間ならば、
成程、漫画を探し出すのに便利な配列となって居る。
恐らく店主も、其の類の人間なのだろう。





第三話 『彼女と漫画喫茶(初/弐)』



ところが一般人が『最終兵器彼女』を読みたい時に、
作者名で探し出すのは、手塚治虫の作品を探し出すのと同義では無い。

懸命に記憶を遡り『最終兵器彼女』の表紙を思い出す。
僕の頭の中に、雨の日の窓ガラス越しに映る風景のように、
酷く不鮮明な表紙が浮ぶが、其れが何巻の表紙なのかも解らない。

少女の背中に羽が生えたような表紙が思い浮かぶけれど、
そもそも其れが『最終兵器彼女』の表紙だったかさえ、酷く不鮮明だ。
何か別の漫画の表紙を思い浮かべて居るような気がする。

「何してんの?」

本棚の前で(何故か「サ行」に人差し指を当てながら)立ち尽くす僕に、
声をかけながら、彼女は僕の右隣に立った。

「遅いよ」

彼女は言うと、本棚から素早く、三冊を抜き取った。
勿論、其れは『最終兵器彼女』の五巻と、六巻と、七巻だった。

「ああ、高橋しん!」

「何が?」

「作者が」

「何が?」

至極当然で些細な事柄に対してまで疑問を抱く多感な少年に、
不審な目を向ける疲れた女教師のような視線で彼女は呟いた。
トーマス・アルバ・エジソンが少年期に向けられた視線も、
きっと今の僕と同じだったに違いない。

彼女は三冊の本を抱えて歩き出した。
僕も本を選ぼうとすると「早くしなよ」と言われたので、
思わず傍にあった高橋陽一の『キャプテン翼』を手に取ってしまった。

彼女は窓際の席を選んだ。
静かに椅子を引くと、静かに腰を掛けた。
窓から注ぐ午後の太陽に、彼女の目は、更に赤くなった。

彼女は五巻の最初のページを開くと、何も言わずに読み始めた。
僕は彼女と相対し、同じように本を開いた。
特に会話は無かった。

最初のページを眺めながら、僕は小さく溜息を吐いた。
自分自身に問い質してみたい。
我ながら何故、此の漫画を、今更、手に取ったのか。
我ながら何故、子供時代に何度も読んだ漫画を、今更、手に取ったのか。

子供時代。
世間はサッカーのワールド・カップ予選で盛り上がり、
其の熱に浮かされるように、僕は地元のサッカー少年団に入部した。

同級生は誰一人として、
僕のドリブルも、僕のシュートも、止める事が出来なかった。
僕は自分をサッカーの天才だと思い込み、
僕は自分をサッカーをする為に生まれた人間だと信じた。
サッカー・ボールを蹴る瞬間、僕は無敵だった。

考えてみれば。
其れは僅かな期間だけ約束された、儚い快感だった。

何処かの有名クラブならば、いざ知らず、
地元の小学生の寄せ集めのようなサッカー少年団ならば、
他より発育の早い人間が、ほんの少しだけ有利、というだけの事だった。

平等に、第二次性徴が、始まるまで。


「ご注文はございますか?」


不意に、先程のウェイトレスが声をかけた。
僕は少しだけ驚き、開いたままの本を、机の上に置いた。
成程、何か足りないとは感じて居たが、飲み物が無かったのだ。

通常の漫画喫茶で在ればフリー・ドリンクの機械が備えられており、
漫画を選び終えた後に、各自でドリンクを選んだりする訳だが、
先程の行動を思い返すと、其の工程が丸ごと抜けて居た。

昭和から続く喫茶店は、漫画喫茶に変わっても、注文を取るのだ。
ウェイトレスは伝票を手に、僕等の返答を待って居る。

「何か飲む?」

彼女は漫画に視線を落としたまま、反応しない。
僕は備え付けのメニュー表の存在に気付き、
充分に眺めてから「アイス・レモン・ティー」と言った。

彼女は漫画に視線を落としたまま、反応しない。
ウェイトレスが「以上で宜しいですか?」と確認した。
僕は指を二本出しながら「二杯」と注文を付け加えた。

彼女は漫画に視線を落としたまま、反応しない。
ウェイトレスは左手に持った伝票に素早く文字を書くと、
ボールペンを胸ポケットに入れ、小さく頭を下げてから、席を離れた。

其処で彼女が呟いた。

「アイス・コーヒーの方が良かったなぁ」

彼女は漫画に視線を落としたまま、同じ台詞を繰り返した。

「アイス・コーヒーの方が良かったなぁ」

「何それ」

「アイス・コーヒーの方が良かったなぁ」

僕には彼女の我侭に付き合う理由も無ければ、
アイス・レモン・ティーをアイス・コーヒーに変更する義理も無い。
そもそも希望が在ったのなら、自分で注文すれば良かった訳だし、
そもそも本来、僕は此処でアイス・レモン・ティーを飲む理由さえ無い。

「無理」

「どうして?」

「僕、珈琲、嫌いだから」

彼女は頬を膨らませた。
頬を膨らませながら「君が飲む訳じゃ無いじゃん」と言った。
其の通り。

僕が飲む訳でも無いアイス・コーヒーなのだから、
僕が彼女の代わりに注文しなければならない理由は無い。
其の通り。

其の通り、で在るはずなのに。

僕は席を立ち、
ウェイトレスを呼び止めると、
「さっきの注文、アイス・コーヒーに変更して下さい」
と言った。

僕にも理由はよく解らない。
強いて言うならば、彼女が頬を膨らませた事と、
頬を膨らませて僕を見た時の、彼女の目が赤かった事が、
僕がウェイトレスを呼び止めた理由だ。

僕が席に戻ると、彼女は先程と同じように、
漫画に視線を落としたまま、もう何も言わなかった。
彼女の栗色の髪は、太陽に照らされて、金色みたいだった。

どうして僕は、此処に居るのか。
どうして僕は、彼女と一緒に、此処に居るのか。
何もかも解らないままだったけれど、特に違和感は無かった。
読みかけの『キャプテン翼』を手に取りながら、目の前の彼女を眺めた。

不意に。
不意に、彼女は何かを思い出したように漫画から視線を外すと、
不意に、顔を上げ、まるで鏡のように、彼女を眺める僕を、静かに眺めた。

其れから

「アイス・コーヒーに変更するの、片方だけで良かったのに」

と言った。



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