要するに僕等は。
全てを否定する事で世界を肯定して居たのかもしれないし、
全てを肯定する事で世界を否定して居たのかもしれなかった。

少なくとも僕に至っては、
全てを否定する事で世界を肯定して居るのだ、と言いたいだけだった。
全てを肯定する事で世界を否定して居るのだ、と言いたいだけだった。

僕が無敵な気分に浸れるのは、あの歩道橋の上だけだった訳だから。





第七話 『彼女と漫画喫茶(初/陸)』



「何時まで読んでるの?」

彼女が席を立った時、彼女の手には三冊の漫画が握られて居た。
僕は間抜けな表情で、漫画を開いたまま、立ち上がる彼女を眺めた。
空いた手で伝票を取り上げながら、彼女が言った。

「もう帰るよ」

「もう読んだの?」

「まだ読んでないけど」

彼女はワンピースの裾を直すと、カウンター横の本棚に向かって歩いた。
彼女の背中を見ながら立ち上がろうとすると、
椅子が板張りの床に擦れて、厭に甲高い音が鳴った。

思わず動かした足がテーブルに当たり、
アイス・コーヒーの注がれたグラスが揺れた。
グラスの中の液体は小さく螺旋を描くように揺れた。

運よく液体が零れなかったのは、
恐らく彼女が一口、其れを飲んだからだろう。

店内には TICKET TO RIDE が流れて居る。
有線放送では無さそうだが、是は何なのだろう。
店主の姿は見えない。
黒色の制服を身に着けたウェイトレスならば見える。

本棚に『キャプテン翼』の第十二巻を戻す。
高橋陽一の欄の少し横には高橋しんの欄が在り、
彼女が先程まで読んで居た第五巻は、既に並んで居る。

レジ・カウンターを見ると、彼女は会計を終えて居る。
ジーパンのポケットから財布を取り出しながら、僕は歩いた。

レジ・カウンターの前に立ち、千円札を取り出そうとすると、
何度目かのデジャヴのように右手で前髪を整えながら、
黒色の制服を身に着けたウェイトレスが、
笑顔で僕に「ありがとうございました」と言った。

彼女が扉を開けると、ご丁寧に、鈴の音が鳴った。
風に吹かれた枯れ葉が一枚、店内に避難しようとして居る。
其れを遮るように扉を閉じると、やはりもう一度、鈴の音が鳴った。

「あ、いくらだった?」

「要らない」

「え、何で?」

「要らないから」

僕は「解りやすいね」と言う訳にもいかず、
財布から取り出したままの千円札を、彼女に差し出した。
彼女に連れて来られたとは言え、漫画喫茶に入ったのは事実だし、
そもそも素性もよく解らぬ彼女に奢って貰う理由は無い。

(素性もよく解らぬ彼女に付き合って漫画は読んだ訳だけれど)

僕は彼女に千円札を差し出したまま、動かなかった。
ところが彼女は僕の千円札どころか、僕さえ見ては居なかった。
先程から落ち着き無く、辺りを見回して居る。

「ほら、千円」

「歩いて」

「は?」

彼女は千円札など何処にも存在しないように振る舞ったが、
辛うじて僕の存在は認めるように、そう言った。

「先に歩いてよ、道、解んないんだから」

「ああ、成程」

来る時は勝手に先を歩いたくせに、
帰る時は勝手に先を歩かせるなんてのも身勝手な話だ。
僕は其れ以上は何も言わずに千円札を財布に戻すと、
其の千円は「道先案内人代だ」と自分に言い聞かせた。

「歩道橋まで?」

「うん」

僕等は来た道を、ほとんど同じように戻った。
太陽は暮れかけて、秋の終わりの冷たい匂いがした。
一面に埋め尽くされた落ち葉は、彼女が歩く度に音を立てた。
だけれど其の音は、既に死んで居た。

「何巻まで読んだの?」

「六巻の途中」

「何で途中で止めたの?」

「愚問」

愚問と言われるほど酷い質問でも無いだろう、と思ったけれど、
少しだけ深入りした質問だった事は否めない。

彼女は僕の斜め後を、静かに歩いて居る。
重低音を響かせるはずのブーツは、壊れたウーファーのようだった。
落ち葉を踏む音だけが聴こえる。

「君、何してる人?」

彼女が言った。

「僕?」

「うん、あんな時間に暇そうだったからね」

僕は笑った。

「何もしてないよ」

「何も?」

「何も」

「学校も会社も?」

「休学中だからね」

彼女は「へぇ」と言うと、また黙った。
僕はポケットから煙草を取り出そうとして、
其れが先程、空になってしまった事を思い出した。

「五巻はすごく良かったよ」

誰も訊いてないのに、彼女が言った。

「だけど、もう読めないと思う」

僕は思わず「ああ」と言った。

「今日で全部、読もうと思ってたのに」

コンビニを右に曲がると、遠くに見慣れた歩道橋が見えた。
僕はコンビニに寄って煙草を買おうと思ったけれど、
何だかどちらでも良い事のように思えた。

少なくとも今の僕は、千円分の彼女の道先案内人だったし、
彼女が楽しみに読み進める『最終兵器彼女』の結末も知って居た。

だけれど其れは単に知って居るというだけの事で在り、
何も知らないという事と、ほとんど大差は無いはずだった。

要するに僕等は。
全てを否定する事で世界を肯定して居たのかもしれないし、
全てを肯定する事で世界を否定して居たのかもしれなかった。

少なくとも僕に至っては、
全てを否定する事で世界を肯定して居るのだ、と言いたいだけだった。
全てを肯定する事で世界を否定して居るのだ、と言いたいだけだった。

歩道橋は、すぐ其処に在った。



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