彼女が第六巻を読み終えた頃には、夕刻だった。

実際には僕は第十二巻をまるで読み進めておらず、
彼女も最終巻まで読み終える予定だったかもしれないが、
相対して座る大半の時間を、僕等は無言と会話の為に費やした。

会計時、僕が財布を出そうとすると、彼女が制止した。
昨日の件も在ったので、僕が支払うと主張すると、
彼女は笑いながら「じゃあ割り勘で」と言った。

バスケット・シューズを履いたウェイトレスは、
レジ・カウンターで僕等を素早く交互に見渡しながら、
愛想の良い笑顔で「お会計はご一緒で宜しいですか?」と言った。

僕はウェイトレスから寄せられた会計に関する質問には答えずに、
財布から千円札を出しながら「バスケット部ですか?」と訊ねた。
彼女が隣で、僕の脇腹を小突いた。

ウェイトレスは「茶道部です」と答えた。





第十四話 『彼女と公園(空瓶)』



僕等は SQUADRON 633 を出た。

空は晴れて居たが、色を感じなかった。
太陽が温度を感じさせないのと同じ理屈で、
地面に落ちた枯葉も急速に色褪せて往く気がした。
雪が降れば此処も白く染まるだろう。

毎年の事だ。
全ては白色の中に埋まる。
何もかも初めから存在しなかったように。

「公園に寄って行こうか」

彼女が言った。
SQUADRON 633 から歩道橋までの道程には、公園が在る。
其れは住宅街の片隅に潜んだ、公園と呼ぶには小さすぎる場所だった。

ペンキが剥げた小さな木製のベンチと、細い鎖が伸びたブランコが在る。
そして其れだけの場所だ。

僕と彼女は公園の敷地に入り、汚れたベンチに腰を掛けた。
特に何かを話す理由は無かったが、何かを話さない理由も無かった。
風に吹かれたブランコが小さく揺れると、細い鎖も小さく音を鳴らした。

「あ、此処か」

思い出したように、僕は言った。

「何が?」

「この公園が」

「この公園の何が?」

中学二年生の退屈な日。
もしかしたら今日と同じような季節だったかもしれない。

あの日も僕は此処に居た。
古本屋から友人達が盗んだエロ本を、此処で回し読んだ。

其れからペプシ・コーラを回し飲みするのが、当時の僕等の流行だった。
飲み終えた空瓶は近所で三十円に換金出来るからという、
今思い返せば、実に貧乏臭い理由だった。

「昔、此処によく来たなと思って」

「昔?」

「昔、中学生の頃ね、よく来てた」

退屈を持て余した僕等が、
決まって訪れるのは、最後には此処だった。
何も無い公園で、僕等が何を話して居たのかさえ、
今となっては思い出せないし、思い出す程の事でも無いだろう。

恐らくは。
昨夜のテレビの話だとか。
昨夜のラジオの話だとか。
誰と誰が付き合って居るらしいだとか。
若しくは誰と誰が既に別れたらしいだとか。
最近のコマーシャルで流れた曲が良いだとか。
おおよそ覚えたての知識を、僕等は世界の全てのように語った。

「何が楽しかったのかな」

「何が?」

「目的も理由も無くて、毎日、集まるだけだった」

彼女はベンチの上で膝を抱えながら、空を見上げて居た。
僕は彼女の長い髪を腕に感じながら、空を見上げて居た。

「楽しくなかった?」

「楽しかったよ」

「うん」

「目的も理由も無くて、毎日、集まるだけだったけどね」

僕が笑うと、彼女が笑った。
其れは話の感想として笑ったと言うよりは、
僕が笑った事に対しての同意を込めた笑い方だった。

「皆、ずっと一緒だと思ってたし。
 皆、ずっと変化する事なんて無いと思ってた」

「うん」

「だけど今日まで、こんな事、すっかり忘れてた」

「うん」

「簡単に忘れてしまえるような出来事なんだよ。
 何の為に、誰の為に、僕が生きて来たのか解らないけれど、
 とにかく全ては簡単に忘れてしまうし、全ては無駄なような気がするよ」

僕は何故に、今、こんな話を彼女にしなければならないのか。
理由はよく解らないけれど、僕の言葉は自然と零れた。
グラスから零れたアイス・コーヒーのようだった。

「一緒が良かったんだ」

彼女が呟いた。

「君は喫茶店の注文も、誰かと一緒が良いんだもんね」

僕は何も言わなかった。

「君は怖いのかな、吉川くん。
 色んな事が変わってしまう事は、怖いね。

 ずっと保存したままにしておく事が出来れば、
 きっと便利なんだけど、中々そうは出来ないね、吉川くん」

彼女は両膝を両腕で抱えながら、下を向いた。
栗色の髪で顔が隠れて、表情が解らなくなった彼女は、
笑って居るようにも見えたし、泣いて居るようにも見えた。

「君が自分で決めた事以上に、君にとって本当の事って在るの?」

風が吹いて、公園の砂が低く舞った。
風は今夜にも秋から冬へ、季節を分断するような気がした。
彼女のネル・シャツは秋風に対して暖かそうだったけれど、
デニム生地のミニ・スカートから伸びた細い足は、酷く冷たそうだった。

「何か飲む?」

柵の向こうの電柱の隣に自動販売機を見付けて、僕は言った。

「一緒に行こうか」

彼女は汚れたベンチを立ち上がると、自動販売機に向かって歩いた。

自動販売機に二人分の硬貨を投入すると、
各商品のディスプレイの下に設置された赤色のランプが点灯した。
僕は「温かい方が良いよね?」と確認しながら、ホット・コーヒーを選んだ。

音を立てながら商品が落下した。
取出口に手を入れると、温かい缶コーヒーが存在した。
僕は座り込んだ姿勢のまま手を伸ばし、彼女に缶コーヒーを手渡した。

赤色のランプは点灯して居た。
僕は立ち上がり、彼女と同じ缶コーヒーを選択しようとした。

瞬間、横から彼女の手が伸びた。

音を立てながら商品が落下した。
彼女は座り込み、取り出し口に手を入れた。
立ち上がると彼女は、彼女が選択した商品を手にしながら、
新しい悪戯を思い付いた少女のように笑った。

其れから彼女が選択した商品のフタを開け、
一口飲むと、
其れを僕に手渡した。

ホット・レモン・ティーだった。

彼女は改めてホット・コーヒーのフタを開けると、
其れを一旦、僕に手渡してから、再び受け取った。

彼女は薄く、本当に薄く、笑った。

彼女は公園のベンチに向かって歩きながら、
途中、首だけで振り返り、

「コレで良いのよ、吉川くん」

と言った。



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