其の空は緩やかに流れる大河のように、僕を見下ろして居る。

其の空の中央部分で、彼女は歩道橋の柵に手を付いて、
僕を見付けるなり「おかえり」と言った。
僕は階段を昇りながら、笑った。

「何、おかえりって」

「何となくね」

「何それ」





第十八話 『歩道橋(黒)』



階段を昇り切ると、
僕は彼女の立つ歩道橋の中央部分まで、
踏み切りの遮断機が上がった時のような速度で歩いた。

彼女は黒色のニット帽を被り、
黒と白のストライプのシャツを着て、
黒色のミニ・スカートと、黒色のブーツを履いて居た。
其れから彼女の眼鏡の縁は黒色であり、彼女の瞳だけが赤色だった。

「髪、染めた?」

僕が彼女のニット帽から流れる黒髪に関して指摘すると、
彼女は小首を傾げ、人差し指で毛先に触れながら「うん」と言った。

リンカは会う度に表情を変えて往く気がする。
初めて会った日の彼女は、秋という舞台に溶け込むような色だった。

栗色の髪の毛と、真っ赤な目と、歩く度に大きな音を鳴らすブーツと、
自信と皮肉に満ちたような喋り方は、柔らかに変化して、
そう、其れ等は音も無く変化して、恐らく変化した事にも気付かない。
世界の中で、僕だけが其れ等に気付いて居るような気がする。

「好きかなと思ってね」

「何が」

「別に」

彼女と僕は、端から見れば歩道橋の上で会話を続ける、
黒色のニット帽を被った、奇妙な二人だった。
彼女は中指で眼鏡に触れると「一緒は良いね」と言った。

緩やかに灰色に染まりつつ在る秋の終わりの空の中に、
彼女の黒と白が、音も無く溶け込んで行くような気がした。

「さて、そろそろ行こうか」

「何処に?」

僕が歩き始めると、彼女は意外な返答をした。
何処に行くのかと問われても、目的地は一つしか在り得ない。

「漫画喫茶」と言いながら、
僕は彼女の鞄を指差そうとして、其の行先を失った。
彼女は会員カードを放り込んだはずの鞄を、持って居なかった。

「鞄は?」

「忘れちゃった」

「お店の会員カードは?」

其の代わり、大きなウェスト・ポーチを腰に巻いて居て、
其の中から小さな缶に入った飴玉を取り出すと「舐める?」と言った。

「舐めない」

「舐めなよ」

「舐めない」

「飴玉は秘める為に在るんじゃないんだから」

「何それ」

歩道橋の下を、黄色いクーパーが通り過ぎた。
黄色いクーパーは枯葉を踏んで往ったが、其の音は聴こえなかった。
彼女は僕の手に触れて、缶を振ると、其の掌の上に数粒の飴玉を乗せた。

緑色はメロン。

黄色はレモン。

赤色はチェリー。

橙色はオレンジ。

透明ならば、其れは何色でも無い。

青色は空の色だ。
其れは緩やかに流れる大河のように、僕を見下ろして居る。

其の空の中央部分で、彼女はミニ・スカートの裾を翻すと、
僕の手を引きながら「何処に行こうか」と言った。
僕は階段を降りながら、笑った。

「漫画喫茶、行かないの?」

「行かなくても良いの」

「第六巻まで読んだのに?」

「読まなくても良いの」

「そんな場所より」と彼女は続けた。
青色の空は次第に灰色の雲に覆われて、今にも秋が終わりそうだった。

「美術館に行きたいんだ」

今にも終わりそうな秋の先端で、
如何にも秋らしい発言をすると、彼女は笑った。
彼女の笑った口元から、白い息が、空気中に零れるのが見えた。

其の白は、本日の彼女の服装に、実によく似合って居た。



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