市の中心部から少し離れた音の少ない土地に、
白色の壁に包まれた、清潔感の漂う美術館が佇んで居る。

美術館の前を、一日に数本のバスが通過する。
西側に五分も歩けば、地下鉄の駅が存在する。
駐車場は無い。

其れは妙な清潔感を漂わせた美術館だった。
交通の便は良く、流通の中心地を少し離れただけだが、
奇妙な程に人通りは少なく、音の少ない土地に、美術館は佇んで居た。

世界から隔離するように、外周には無数の木が植えられて居る。
建物は緩く曲線を描くように、全体的に丸みを帯びて居る。
入口には鉛で円を描いたような、螺旋の形の物体。

僕は美術館の前に立つと、口の中の飴を噛み砕いた。
オレンジ色の飴は悲鳴のような音を残して、すぐに溶けた。
其れは唾液と共に喉を経由し、胃に到着し、
ほんの暫しの間、其処に留まる事となった。





第二十話 『彼女と美術館(具象と色彩/壱)』



入口を通過しながら「今は何展かな?」と、彼女が言った。
壁に貼られたポスターには「具象と色彩(その創造)」と書かれて居る。

美術館は中は巨大ではあったが、
決して壮麗では無く、其の一方で素朴では無かった。
中庸で在りながら特別な其れは、巨大で在りながら平凡で在り、
喩えるならば森の木の枝に張られた、可憐な蜘蛛の巣にもよく似て居た。

何故、突然、彼女は美術館に行きたいと言い出したのか。
今は何展か? と確認したくらいだから、目的の作品が在った訳では無く、
全ての事象は漠然としながら、抽象的な理由が僕を導いて居る気がした。

確かな事など何一つ存在しておらず、
其れでも僕は彼女の理由に従うように、僕の行動を決定して居る。
其処に違和感は無く、寧ろ混沌とした快楽さえ感じる。

目的地を知らぬ侭、目的地に進むような感覚は、
最終到達地を知らぬ侭、最終到達地に進むような行為にも近い。

知らぬ侭で進む行為が快楽に繋がる訳では無く、
知り得る中で導かれる感覚が、後天的な快楽に繋がるに過ぎない。

嗚呼、地下鉄に乗った辺りから、僕は変だ。
オレンジ色の飴を舐めて、其れを噛み砕いた辺りから、僕は変だ。
と思った。

風邪でも引いたか。
意識が朦朧として居る気がする。
彼女が振り返り「何してんの?」と言った声。

言った声、が聞こえる。
だから僕は行かなければいけない。

正面玄関は吹き抜けに成っており、二階が見える。
左右の壁には巨大な絵画が飾られており、其れは対になって居る。

右の絵は黒。
恐らくは男。

左の絵は白。
恐らくは女。

其の中央を、黒と白を纏った彼女が歩いて往く。

音が無い。
此処は酷く無音だ。
辛うじて静寂に近いのは、彼女の足音が聞こえるからだ。

左に曲がり細い通路に入ると、
其処には横に長い灰色の絵が飾られており、
其の一面に、様々な姿勢をした裸の男達が描かれて居る。
細い通路は薄暗く、横に長い絵画だけが、煙たい電球に照らされて居る。

男達の表情は一定で在り、笑っても居なければ、怒っても居ない。
悲しんでも居なければ、喜んでも居ない其れは、
無表情と呼んで差し支えない。

男達は全裸で在り、頭髪さえ生えて居ない。
男達の姿勢は様々だが、一様に腕を上方に伸ばして居る。
おおよそ助けを求める時に、人間は誰でも同じような姿勢をするだろう。

助けを求めては居るが、感情を表さない灰色の其れは、
細長い通路の端から端を覆うように、異様に横に長く伸びて、
延々と亡者の群れのような絵画を眺め続けなければいけない訳だが、
不思議と苦痛には感じない。

僕の前を歩く、彼女の背中が見えた。
不意に、彼女は一人の(絵画の中の)男の前で立ち止まると、
口元だけで微笑むような表情をしながら、人差し指で、男を指差した。

男は無数の亡者の群れのような男達の中で、一際高く手を伸ばして居る。
等しく表情は無いが、僅かに意思を感じられるような気がしたのは、
恐らく男一人だけが、薄く眉毛を描かれて居るからだろう。

灰色の絵画は奥に進むに連れて、次第に青みを帯びて往った。
其れから緑色へと移行し、続いて赤色へと変化した。
音の無いグラデーションの先は真紅(恐らく其れは辛苦でもある)であり、
絵画の一番先端は、醒めるような黄色だった。

絵画の一番先端は、醒めるような黄色で塗りたくられており、
他には何も描かれておらず、其処で絵画は終わった。

細い通路を抜けると照明が戻り、彼女と僕は小さな丸い場所に出た。
少々明るすぎる位に感じるのは、恐らくは薄暗い通路を抜けたせいだろう。

小さな丸い場所の壁には、無数の額が飾られて居る。
小さな丸い場所の中央に、裸婦の彫刻。
天井から数本の照明が宛てられて居る。

裸婦は足を曲げて座り込み、首を下に向けて俯いて居るが、
其れは淡い絶望感よりも、深い達成感を漂わせる表情だった。

裸婦は左手を床に垂らし、右手を胸の前に置き、其の掌を上に向けた。
其れは咲き始めた花の蕾のようにも見えたし、
穏やかに降り始めた雪を受け止める掌のようにも見えた。

「誰の作品かな?」と僕は言った。
彼女は特に何も言わずに、小さく笑った。

数方向から無数に伸びる照明のせいで、彼女の影が消えて居た。
僕は此の侭、彼女が美術品の一つになってしまうような感覚を覚えながら、
彼女の背中を、黒色のミニ・スカートから伸びる、白くて長い脚を、追った。



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