解体。

嗚呼、帰りたい。

手は届かずに、噛み締める相対。


小鳥を飼いたい。

黄色くて素敵な小鳥を一羽。

空高く飛んで見せてはくれないか。

僕の足下で静かに震えて死んでいく前に。


懐胎。

嗚呼、孵りたい。

手は届かずに、噛み締める相対。


彼処から、此方まで。

何度でも望んでるのは

歩道橋の中央での再会。


会いたい。

会いたい。

嗚呼、痛い。


会いたい。

会いたい。

嗚呼、痛い。





第二一話 『彼女と美術館(具象と色彩/弐)』



「綺麗な絵ね」

小さな丸い場所を抜けると、大きな四角い場所に出た。
彼女は小さく息を吐き出すように、再び「綺麗な絵ね」と呟いた。
其れは確認作業のようでも在ったし、壊れた再生機材のようでも在った。

四角い場所の正面には、巨大な絵画が一枚。

天井から床まで一面を覆うような巨大なキャンバスの中央に、
真白な花が一輪、咲いて居る。
背景は黒。

否、背景は黒に見えるが、
繊細なグラデーションは、黒から青へと移行して居る。
青は本質的に白を含んで居るし、白を含みながら透明を含んで居る。

其れは水だ。

小さく揺れる波間だ。

小さく揺れる波間の中央に、花が咲いて居る。

僕は先程眺めた彫刻の、裸婦を思い出した。
裸婦は左手を床に垂らし、右手を胸の前に置き、其の掌を上に向けた。
其れは咲き始めた花の蕾のようにも見えたし、
穏やかに降り始めた雪を受け止める掌のようにも見えた。

四角い場所には、其の絵画の他に何も存在しておらず、
彼女は壊れた再生機材のように「綺麗な絵ね」と何度も呟いた。
まるで其の場面が消えないように、僕の脳裏に色濃く焼き付けるように。

全ては無音に近い。
殆ど無音に近い世界の中で、ほんの僅かな静寂が存在して居る。
四角い部屋を出て、細い通路を歩く瞬間、彼女は小さな声で、僕に言った。

「無音と静寂は違うわね」

「無音と静寂?」

「どちらも静かな事に変わりはないけれど」

細い通路を歩く行為は、歩道橋を歩く行為とよく似て居た。
其れは一直線に伸びて居て、隔てるモノは何も無く、
足下を通過する自動車も、市民も、雑音も、
全てを隔離して、僕は存在して居た。
ような気がする。

「誰も存在しない静けさが、無音よ」

「うん」

「誰かが存在する静けさが、静寂よ」

細い通路を、僕は彼女の背中を追うように歩いた。
彼女の隣に並んで歩きたい、と思った。
ところが細い通路では、彼女と並んで歩く事が出来なかった。

具象と色彩(その創造)。

彼女の裸体を想像する時、僕は彼女の肌を想像する。
白く澄んだ、青く血管の浮き出るような、彼女の肌を想像する。

其れから黒く流れる彼女の髪を想像する。
其れから赤く染まる彼女の目を想像する。

赤に白を溶け合わせたような乳房を想像する。
透明な汗と、唾液と、愛液を想像する。
甲高い彼女の声を想像する。

其れから白く濁る、僕の精子を想像する。

僕は手を伸ばす。

其れは届かない。


彼女は目の前に存在するが、酷く遠い存在にも見える。

僕は今にも壊れてしまいそうな気分になり、

彼女を呼ぶが、其れも届かない。

僕は名を知らない。

壊れる。


解体。

嗚呼、帰りたい。

手は届かずに、噛み締める相対。


小鳥を飼いたい。

黄色くて素敵な小鳥を一羽。

空高く飛んで見せてはくれないか。

僕の足下で静かに震えて死んでいく前に。


懐胎。

嗚呼、孵りたい。

手は届かずに、噛み締める相対。


彼処から、此方まで。

何度でも望んでるのは

歩道橋の中央での再会。


会いたい。

会いたい。

嗚呼、痛い。


会いたい。

会いたい。

嗚呼、痛い。




「何してんの?」

彼女の声が聞こえた。
彼女は黒と白のストライプに包まれた腕を伸ばした。
彼女の手が、僕の額に触れた。

彼女の手は、柔らかく、冷たかった。

嗚呼、地下鉄に乗った辺りから、僕は変だ。
オレンジ色の飴を舐めて、其れを噛み砕いた辺りから、僕は変だ。
と思った。

風邪でも引いたか。
意識が朦朧として居る気がする。
彼女が振り返り「何してんの?」と言った声。

言った声、が聞こえる。
だから僕は行かなければいけない。

「あ、やっぱり」

「ん?」

「熱があるよ、吉川くん」

「ん?」

「ずっと様子が変だと思ってたのよね」

彼女は僕の手を引くと「美術館を出よう」と言った。
其れから重低音のような足音を響かせて、館内を歩き始めた。
絵画の中で柔らかな枝に停まって居た小鳥が、羽ばたきそうな音だった。

世界は一瞬にして騒然となった。

雑音。感情。心拍。表情。

其れ等が、僕の手を引いて居る。

彼女と僕は、細い通路を歩いた。
何度か大きな部屋を通過したけれど、彼女は見向きもしなかった。
ひたすらに出口を求め、ひたすらに彼女は歩いた。

「どうして言わなかったの?」

「ん?」

「具合が悪かったんでしょ?」

館内に響くような、大きな声で彼女は言った。
僕を引く手は力強く、まるで地球の引力のようだった。
僕は「地球の引力のようだ」と言って笑った。

「何、言ってんの?」

「ん?」

「馬鹿じゃないの?」

「ん?」

「熱があるのに、我慢して」

僕は渇いた水車がカラカラと回転するように笑ったが、
彼女の手の力を弛める効果は無かった。
彼女は洪水のように怒った。

「君は子供?」

「ん?」

「君が何も言わないと、私は何も気付けないかもしれないのよ」

「僕が何も言わなくても、君は気付いたじゃないか」

「君は子供だよ、吉川くん、馬鹿だよ」

大きな部屋を通り過ぎた時に、小鳥の絵が在るのが見えたし、
空瓶だとか、果物だとか、空だとか、海だとかの絵も見えた。
だけれど本当に、其れ等は今、どうでも良い事だった。

「一緒が良かったんだよ」

僕は言った。
最後の細い通路を抜けると、小さな部屋に出た。
其れは本当に小さな部屋で、小さな絵が一枚、飾られて居た。

其の絵の中には一人の裸の少女が描かれて居て、
其の少女はリンカにそっくりだった。
其れから彫刻の裸婦にも。

彼女は泣いて居た。
理由はよく解らないけれど、彼女は泣いて居て、
小さな部屋の中央で僕を抱き締めると、僕に唇付けをした。

「そんなに一緒が良いのなら、私に風邪を伝染しなさいよ」

彼女は言った。
高熱の中でマグマが蠢いて居たけれど、何も気付かなかった。

其れは何時の日か地表に噴き出して、
全てを溶かしてしまうかもしれなかったけれど、
其れでも別に構わなかった。

彼女の唇は飴のようだった。

少なくとも、今、僕の世界の中で。

彼女だけが、色付き、

彼女だけが、存在し、

彼女だけが、現実的だった。



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