雪と鉛色。
全ての音が吸い込まれてしまいそうな僕の部屋で、
彼女が取り出したのは、小さく、固く、其れから酷く冷たい、鉄砲だった。

雪は降り続けていた。雪は。
其れは僕等の季節が移り変わる事を、何の躊躇も無く告げた。
変わらないモノなど無いならば、僕等の季節は、そう、至極当然のように。

冬になった。






第二六話 『自室(解熱)』




「何?」

凍えてしまうような三秒間の沈黙の後に、
僕が最初に発したのは、呼吸にも似た、其のような台詞だった。
其れが何なのかは、訊かなくても知っている。

「玩具?」

「鉄砲」

「本物?」

彼女は白い指で、鉛色の其れを持ち上げると、先端を自らのこめかみに当てた。

「どっちだと思う?」

其の姿勢のまま、少し笑ったように、言った。
彼女の背景に窓があり、其の奥に雪が見えたけれど、まるで温度は感じなかった。
其の全てが、静かな動作だった。降り落ちる雪も、彼女の口元も、全てが音も無く動いている気がした。

「玩具」

僕の返答は、単なる希望だった。
本物である訳が無い、では無くて、本物であると思いたくは無かった。
そもそも彼女が(本物だろうと、玩具だろうと)鉄砲を、今、此処で取り出した理由さえ解らなかった。
解らないならば、単なる希望を告げるしかなかった。

「私ね、死んでしまいたいの」

「え?」

「だけど生きていたいのよね」

まるで相反する事実を、突然、彼女は呟いた。意図は解らない。
只、彼女が鉄砲の先端を、こめかみに当てる姿勢だけは変わらなかった。
僕の心臓が一回、細長い針で突き刺したように、深い場所で痛んだ。理由は解らない。

「一緒は良いね、吉川君」

「え?」

「君は私になれる?」

彼女の声が、まるで意味の解らぬ現実感を伴って、僕の耳に響いていた。
鉄砲。彼女の台詞。ほとんど直感的に訪れる、肉体的な衝動。要するに、命のやりとり。
何故か、この瞬間、僕は今まで意識した事も無かった感覚を、生だとか、死だとかを、確かに感じていた。
チチチ。巨大な足。踏み潰される。

「死にたいのに、生きたい?」

「消えてしまいたいのよ、私」

「消えたい?」

「ねぇ、私の事、好き?」

言いながら、彼女は眼を閉じた。
真黒な眼鏡の奥に在る、真赤な眼を閉じた。
鉄砲の先端を、こめかみに当てながら、眼を閉じた。

「好きだよ」

僕は言った。
言った瞬間、窓が小さく揺れた。

何で?
何で今、そんな事を訊かなければならない?
何で今、そんな事を言わなければならない?

「何で?」

「え?」

「何で今、そんな事を、そんな風に」

自分でも驚いたのだけれど、僕は小さく泣いた。
雪の降る窓。寒い部屋。鉄砲を手にした彼女。泣いている僕。
まるで異常な風景だった。歪んだシュール・レアリスムの絵画のようだった。

大切な気持ちだったのに、何で今、こんな風にして告げなければならない?
まるで理由が解らない。意図が解らない。僕の気持ちは、こんな風に告げるべきでは無かった。
泣いている僕を見て、彼女は鉄砲を下ろした。其れから小さく「ごめんね」と言った。

机の上には、彼女が捨てた空缶が飾られていた。
誰にも知られたくは無かった。
彼女にさえも。

「ごめんね」

一緒が良かったんだ。
だけれど僕は、誰にも知られぬように、何時だって隠し持っている。
空缶を。感情を。不満を。不安を。本当の気持ちを。
一緒を恐れているのは、僕の方なんだ。

彼女は静かに近寄ると、僕を抱き寄せた。
先程、タオルを落とした床は、まだ少し濡れていて、冷たいはずだった。
冷たい床の上で、彼女は僕を抱き寄せて、額に唇付け、頬に唇付け、唇に唇付けた。

「私ね、今すぐ行かなきゃならないの」

「何処へ?」

「そうね、私の事を、誰も知らない場所」

彼女の言葉は不透明で、説明不足で、複雑な暗喩のようで、ほとんど意味不明だった。
其れでも僕は、彼女が今すぐにでも此処を離れようとしている事実を理解した。
彼女には今すぐにでも此処を離れなければならない理由があるのだ。
何故ならば、僕等の季節が、もう変わってしまったから。

僕等は唇付けをして、其のまま動かなかった。
其れ以上、動いてはいけなかった。
彼女が、耳元で、囁いた。

「ねぇ、吉川君」

「何?」

「私を見付けてくれる?」

「え?」

抱き寄せた姿勢のままで、彼女は手を動かした。
僕の手に冷たい何かが当たり、其れが鉄砲だと理解するのに、時間はかからなかった。
彼女は僕の手に鉄砲を握らせると、其のまま数秒、先程よりも強く力を加えて、僕を抱き締めた。

雪は降り続けていた。雪は。
其れは僕等の季節が移り変わる事を、何の躊躇も無く告げた。
変わらないモノなど無いならば、僕等の季節は、そう、至極当然のように。

「もう一度、会いたい」

彼女は言った。
窓の外の雪は、まるで降り止もうとしなかった。
だから僕は、季節が変わるのと同じに、彼女は此処を去ってしまうのだろうと思った。

「もしも私を見付けたら」

其の時はね、吉川君。
其の瞬間の、彼女の声が、耳元で。
永遠に消えない音のように、僕の中に、沈んでいった。

「君が、私を消してね」

其の日から、彼女は僕の前から、居なくなった。



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