第三章 『あの日』

あの日も、やはり土曜日でした。
私は登校路を、今日の放課後の事ではなく、先日と同じく、今日の学級での私を想像して歩きました。
尤も、先日とは似て非なる想像でしたが。

雨が少し強くなってきたので、私は走りました。
何の気もなく走り始めました。
途中、
数人の大人と擦れ違いました。
数人の児童も追い越しました。

突然、
彼らが私を見ている様な気がしました。
私の足は速まりました。

走れば走る程、彼らの目が私を捕らえる気がしました。
何故か逃げ出したくて更に走りました。
雨は更に強くなりました。

水溜まりも構わずに走りました。
新しい私のジャージに泥が跳ね上がりました。
其れでも、私は走りました。

つい先刻までの私が、なんだか急に、泥に汚されて隠れていく気がしました。
学校に着く頃には、すっかり私は何時もの無口な私に戻り、あっさりと校門を潜りました。
正に平時通りの朝の風景といった感じに、私は自分へと席に着きました。
そして何気なく窓の外の景色を眺めました。
此れは窓際の席である私の、毎朝の癖だったのです。

不と私は、周りからの視線と会話を感じました。
そこで私はようやく、今日の自分の服装について思い出しました。

会話の内容は聞こえませんでしたが、
彼らの視線と表情から、恐らく私の服装の変化について、何やら言ってるであろう事は理解りました。
私は此のジャージを脱いでしまいたい衝動に駈られました。
そしてもう其のまま動けなくなりました。

窓の外の景色も教室の風景も、
窓の外の雨音も教室の陰口も、
全てが感覚の奥で響くだけでした。

やがて先生が教室に入ってきました。
私の心臓は訳も無く大きく波打ちました。
先生が私の新しいジャージについて、何か触れやしないかと思い強張りました。
然し先生は、別段私の異変に気付いた様子も無く、大きな声で、教科書を出せと言いました。

私は鞄から、教科書を出そうとしました。
其処で気付いてしまったのです。
今朝、私が大切に秘めた筆箱の存在を。

瞬間、血の気が引くのを感じました。
此処で新しい筆箱など出したら、皆に何と思われるだろう。
調子に乗っているなど言われて、馬鹿にされるだけだろう。
そう思ったのです。

其処に先生が「書き取りをするから鉛筆を出せ」と、大きな声で付け加えました。
私はもう、鞄の中から器用に鉛筆だけ抜き取ろうとすると、
先生が「早くしろ!」と、更に大きな声を出したので、一寸とも動けなくなりました。
其の内、皆、何か書き始めてしまい、遂に先生が、私の異変に気付いてしまいました。
先生はゆっくりと、私の横に着ました。

「筆記用具は?」

私は鞄に手を入れたまま黙っていました。

「忘れたのか?」

其れでも私は黙ったまま俯いていました。

すると先生は、どれ、と言ったきり、私の鞄を強引に取り上げ、中身を物色し始めました。
鞄の中が先生に掻き混ぜられ、私の中の叫びは掻き消されました。
何度もヤメテクレ、ヤメテクレと祈る間さえも、皆が私を見てるのが気になって仕方ありませんでした。

ついに先生は私が奥に秘めた物を見つけ出し、鷲掴みで其れを取り出しました。
其れを私の目前に突きつけて「有るじゃないか」と睨みました。

「大方、お前は漢字の書き取りをしたくないのだな。
 皆もやっているのに。
 見た所、此の筆箱だって随分と新しい物じゃないか。
 折角、親御さんが買ってくれたんだろうに、そうやって使わないままじゃ、親が泣くぞ。」

皆、一斉に笑い出しました。

教室中が笑い声で満たされました。
先生は静かにしろと怒りましたが、其れは無茶な恫喝でした。
今朝から皆が触れたがってた部分に、先生自身が素手で触れたのですから。

後の席から例の声が、

「ジャージも」

と小声で言いました。

又、皆、笑いました。



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