第四章 『閃光とカーテン』

其れから放課後までの間、彼等が休み時間毎に続ける冷評を、私は無口で受け流しました。
遂に放課後が近付く頃には、朝方の雨は豪雨となっていました。
傘の無い私は、教室で雨宿りを決め込みました。

皆ぞろぞろと下校して行き、半刻後には、私と掃除係と他数人が残っているだけという状況になりました。
手持ち無沙汰な私は、例の筆箱から鉛筆をそっと取り出し、今日返された答案用紙の裏に絵を描き始めました。

やがて先生がやって来て、教室中を見回しました。
どうやら掃除の点検をしているようでした。
そして係の者達に「御苦労様、帰ってよろしい」と言いました。
次に、私と他数人を見て「君等も早く帰りなさい」と言いました。
私は今日の事があって、先生の顔をあまり見れませんでした。

先生が職員室に戻ると、教室には本当に数人しか残っておらず、
しかも其れ等は、普段私を馬鹿にする、あの輩達でした。
私は早く家に帰りたくなりました。
然し尚、雨は、激しく降るのです。

そして遂に、其の時がやって来ました。
先生が電灯を消した為に教室は薄暗くなっていました。
時折、強風で窓が音を立てました。

私は手を休めて、窓の外を眺めました。
雨水でぼやけた窓硝子からは、何だかぼやけた景色しか見えませんでした。

突然、雷が鳴りました。

光が、教室中と私を冷たく舐めました。

ドクン。

私の心臓が急に波打ちました。

ドクン。

掻き立て得る全てが私を掻き立てました。

ドクン。

再び、雷が、鈍く、冷たく、光りました。

「オイ、病菌が震えてるぞ」

此の声が開始の合図となりました。

数人の男童共が、何やら言いながら、私に近付きました。
そして机上の私の絵を見ると「下手糞だな」と笑いました。
おもむろに一人が、私の筆箱を手に取りました。

瞬間、私は「失策った」と思いました。
机上に筆箱を放置していたのを後悔したからではありません。
其れが何時も私を馬鹿にする、後席の男だったからです。

彼は私の筆箱を開けて、しげしげと眺め、皆にも見せました。
そして「どうせ安物だ、偽者だ」と皆に笑いかけました。
更に今度は筆箱から鉛筆を取り出すと、机上の私の描いた絵に其の手が伸びました。

雷鳴が再び、重く響きました。

彼は私の絵に無造作に何かを描き始め、皆は其の様子を見て声を上げて笑い出しました。
他愛のない落書きです。
人物写真に髭や傷を描き込むような程度の落書きです。
なのに私には、言い表しにくい、或る種の感情が宿りました。

更に彼は描き続け荒らし続け、用紙を真っ黒にした後、
此の筆箱の鉛筆じゃ巧く描けない等と言い、
今度は消しゴムを使い、乱暴に用紙を擦り始めました。

見る見る紙は破け、皺を付け、握り潰され、床上に転がり
雨風がガンガンと窓を叩きつけました。
紙には、母の似顔が描いてあったのです。

……私は鋭敏で臆病な私で有るから、此の時も黙って下を向いているだけでした。
人によっては此の点について、私を不憫に思うかもしれません。
然し、当時の私の本当に不憫な点は、
此の鋭敏で臆病な私が、或る大切な一点において、非常に愚鈍で有ったという事です。

「病菌の物、そんな触ると、手ェ腐るぞ」

笑いながら見ていた男童の一人が、後席の男に言いました。
彼は、嗚呼、と思い返したように呟き、消しゴムを机上に放り投げました。
皆も少し、私から離れました。
雨は尚、激しく怒号を上げて降り続け、濡れた窓から見える校庭は黒く佇んでいました。

数秒の沈黙の後、後席の彼が、私の筆箱に再び手を伸ばしました。
誰かが「汚いッ」と小声で叫びました。
彼は昼間の先生のように、筆箱を鷲掴みにしたかと思うと、蓋を開け、中身を冷たい床にぶちまけました。
鉛筆の芯は折れ、定規は椅子に隠れました。

「こんな汚い物ァ、窓から捨てちまおう」

彼は筆箱を持ったまま、窓に近付きました。
外は未だ豪雨が校庭と芝生を叩きつけ、硝子は死刑囚のようにガンガンと悲鳴を上げました。


窓が開きました。


耳の奥に響く雨の轟音。


カーテンを踊り散らす強風。


大粒の叩きつける水の群れ。


其の全てが私に襲い掛かりました。


再び雷光が私の全身を強く冷たく舐め、


後を追い雷音が私の上に重く覆い被さりました。


筆箱が、宙に舞いました。


……私の愚鈍な点。
私は何時も自分が馬鹿にされるのを恐れて神経を張り巡らしているのが常でしたのに、
事、間接的な中傷には、全く気を留めなかったのです。

此の時も私は、筆箱を馬鹿にされる私を不憫に思い、
其れは母を馬鹿にされる事と同じなのだとは思いませんでした。
只、弄ばれる虫のように、凝とするだけだったのです。

笑い声と共に、私の鉛筆も消しゴムも、次々と投げ捨てられました。
黒い校庭に次々と投げ捨てられました。
風が、教室の扉をガタガタ揺らし、私は只、此の風景を眺めました。

其の時、誰かが言ったのです。
恐らく今日の先生の言葉を、面白がって覚えていたのでしょう。



「親が泣くぞ」



瞬間、私の目に、今朝の母の顔が飛び込んで来ました。
家の扉を閉める瞬間の優しい母の笑みが浮かびました。



「親が泣くぞ」



突然、私は立ち上がりました。
私は思わず、窓から身を乗り出しました。
母が私にくれた物達が、点々と雨に打たれていました。

先程感じた、言い表せない或る種の感情が、再び私に向かって首を擡げてきました。

私は彼等に目を遣りました。
彼等は突然の私の行動に驚いたように、互いの顔を見合わせていました。
私は窓を乗り越えようと、足を上げました。
窓枠に足を掛け、身を持ち上げかけた時、誰かが私の体を掴みました。

勘違いしないでください。
尤も其の教室は二階だったので、少々危険では有りましたが、
私の体を掴んだ誰かは、別に飛び降りんとする私を止めようとした訳では無いのです。
私は彼等の虫なのですから。

其の誰かが、後席の彼だと気付くまで、半瞬ともかからなかったでしょう。
私の目は校庭の物達に注がれ、彼の声は教室の者達に響きました。

「病菌の生意気なジャージを脱がせろ!」

男童共が一瞬躊躇ったのは、良心の呵責というよりも、私が汚いという固定観念からだったのでしょう。
然し、率直に其の命令に従い、私のジャージに触れました。



「親が泣くぞ」



私の筆箱がドンドン雨に打たれました。
私は力の限りで、此の教室から、此の窓から飛び出ようと、もがきました。



「親が泣くぞ」



雷が遠くで数回、光りました。
カーテンが、まるで、母の腕の様に、
私を迎え入れてくれるかの様に、広がりました。



「親が泣くぞ」



私は手を伸ばしました。



「親が泣くぞ」



不意に何かに触れかけたのです。



「親ガ泣クゾ!」



瞬間。

私のジャージが宙に舞いました。

ゆっくり

二枚の羽を広げて舞い降りるように。

ゆっくり

古い役目を果たした抜け殻のように。




ゆっくり、校庭に落ちました。




裸になった私は、雨に打たれるまま、其の光景を眺めました。

打たれるままに、眺めました。


やがて豪雨は小雨となり、深々と降り注ぎました。

深々と、私と、私のモノ達の上に、降り注ぎました。


そして其れはきっと

母の上にも、深々と降り注いだのです。



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