第五章 『帰路の残像』

やがて雨は上がりました。
気付くと教室には誰も居らず、私は他人に知られぬよう急いで校庭に出て、私と私のモノ達を拾いました。
芝生の上に濡れたジャージが、呼吸もせずに落ちていました。
私は濡れたままのジャージを身に付けました。

此の時の私の心は、意外な程に穏やかなものでした。
何故でしょう。

私は、あの広げられたカーテンの中で、何かに触れかけたからだと思いました。
私に対するあの冷遇の後にも関わらず、しかも恐らく変化しないであろう、
此の先の私の学級での立場を考えて尚、私の心は穏やかになるのです。

私は家に向けて歩き出しました。
空には雨上がりの晴れ間が覗いていました。



そういえば。
あの日の帰路の途中に、こんな余談があります。
家路に着く途中で、私は一人の大人と擦れ違いました。
勿論、此れは偶然の出来事だったので、彼が何者なのかは今でも知りません。

彼はつい先刻まで雨風に耐えていたであろう、オレンジ色の傘を畳んでいる最中でした。
あの明るい傘の色が印象的であったので、今でも鮮明に覚えているのかもしれません。
まだ渇ききっていない傘からは水が垂れ、服装や髪型も乱れておりました。

もしかしたら仕事で外回りをしていたのかもしれません。
或いは遠方からの旅行者だったのでしょうか。
どちらとも採れる身形として私の記憶には残っています。
彼はズボンのポケットから、小さな地図を取り出しては、辺りを見回していました。

何だか疲れた顔をしているようでした。
しかし悲しそうな顔にも見えました。
そして笑っている顔にも見えました。
当時の私にとって、彼の顔は、とても複雑な表情だったのです。

やがて私の横を通り抜けました。

彼は何処へ行くのでしょう。

そして何処へ帰るのでしょう。

彼の後姿を眺めながら、以後、未だ再び彼と出会う事は有りません。
当然です。
私も又、歩いていましたから。
ほんの数秒の出来事でした。



そうして私は、私の家に着きました。
今朝、私が自信に満ちて此の玄関に立った事が、随分と昔の出来事の様に思えました。
そして今朝、あの時振り返り見た母の笑顔も、色褪せたモノのような気がしました。
ほんの数時間離れただけの我が家が、見慣れない、絵葉書の風景の如く見えたのです。

私は泥で汚れたジャージを数回手で叩きました。
然し、雨で濡れたジャージには、あまり意味の無い動作でした。
そして扉に手を伸ばし、其処で私は固まってしまいました。
壊れた筆箱が、頭を過ぎりました。

水溜まりが軽く風で波打ち、
まだ渇ききらない地面が町の音を吸い込んだ様に、
辺りは静かでした。

唾を飲み込み、私は思い切って扉を開けました。
家の中は少しだけ浸として、奥の間からは小さくテレビの声が聞こえていました。

私は無造作に靴を脱ぎ、居間に向かいました。
雨水で湿った靴下が廊下でペタリと音を立てました。
居間を覗くとテレビが独りで喋っていました。
私はその光景に違和感を持ちました。

母の姿が無かったからです。

平時の土曜。
私が下校すると、母は台所で昼食を作っているというのが、私の中の土曜日の風景でした。
然し、今日の私は、放課後の事で随分と帰宅が遅くなっていたのです。
台所に母は無く、テレビだけが独り言を響かせていたのです。
なんとなく、私は、その場で佇んでしまいました。
其の時、窓の外で物音がしました。

先程までの大雨が嘘のような晴れ間から、
日光が、窓を通して、居間に降り注いでいました。
そしてその先に、洗濯物を干す母の姿を、私は見つけたのです。

何故かホっとしました。
同時に汚れた筆箱とジャージの事を思い出し、
陰鬱にもなりましたが。

とにかく私は、鞄から壊れた筆箱を取り出し、私の机の引出しの中に隠しました。
更に急いでジャージも着替えてしまおうと思いました。
此の頃の私には、帰宅すると直に、昼間でも寝間着に着替えるという奇妙な習慣があったので、
今も其れに倣おうと思いました。

私が着替えていると、母がベランダから戻って来ました。
私の帰宅に気付いたようなので、慌ててジャージを部屋の押し入れに投げ込みました。

何食わぬ顔で私が食卓に向かうと、母は「お帰り」と言いました。
私は母の目を見る事が出来ずに、目をテレビに向けたまま黙っていました。
母は私に対し、何も訊かず、何も喋らず、平時通りの母の様子でした。
そうして、母と私が昼食を摂る日常が、深々と積もり過ぎていきました。

外から子供達の声が聞こえ始めました。

声は次第に多く、大きくなっていきました。

日光が、私に向かって伸びてきました。

私は寝間着の袖を見詰めました。

少し時間が流れて、
母が干した洗濯物を取り込みだしました。
私は机で絵を描きながら、其の様子を眺めていました。

母が干したての布団を両手で持って、私の方に近付きました。
正確に言うと、私と机の傍に在る押入れに近付いてきました。
失策った、と思いました。

あれ程まで心配してた筆箱とジャージの事を、私は隠した途端に忘れてしまっていたのです。
私が投げ入れたジャージが、押入れの奥から少し見えていました。
私は立ち上がり、今描いたばかりの絵を母に見せ、母の足を止めようと試みました。
布団を持った母は目だけを絵に向けて、何か褒めたりはしていましたが、足を止めようとはしませんでした。

私が色々話し掛けても、どんどん押入れが近付いてきました。
私の頭は完全に混乱して、似たような場面が何度も回るだけでした。
母が押し入れの前に立ち、布団を奥に押し込もうとしました。
私は既に完全な傍観者でした。

母が何かを見つけたような顔をしました。

其の横顔だけが見えました。

再び日光が伸び

遠くで子供達が叫び

私は母の横顔を眺めました。



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