■さ行
サザウタ -許され得ぬ全てのモノとカイワについて-




そしてサザウタが響いた。

始めに犬と鴉が居た。
其れから年老いた兎が居た。
年老いた兎は常に其処に居た。
其れ等以外に色や音は無かった。

犬は感性的であり孤独だった。
鴉は理性的であり孤独だった。
其れから兎は徹底的に孤独であった。

其処には本来、何すら存在せず
又は、只、存在するだけであった。
なので彼等は、只、存在する事にした。

やがて様々な色や音が生成された。
すると犬は旅立った。
そして鴉は息絶えた。
年老いた兎は常に其処に居た。

只、其処に居た。
延々と。

そして、サザウタだけが、響いた。

















-許され得ぬ全てのモノとカイワについて-












既に年の瀬だった。
小さな店の片隅に座り僕等は会話をした。
店内は薄暗かったが大きな窓が在り
決して閉塞的な雰囲気では無かった。

大きな窓からは植え込まれた木々が眺められ
其れ等には雪と光による装飾が施されており
横から見える目前の大きな街道を歩く人々は
各々の体感し得る、各々の温度について
実に正直に、寒そうな態度で歩いていた。

僕等の座る席の横には、其のような大きな窓が在り
僕等は其の窓と其れ等の風景を横にし、会話をした。
BGMにはRANCIDが流れていた。

店内はおおむね穏やかだった。
僕が会話をしている相手は女性だった。

僕は黒いニット帽を深く被り
色褪せた古いジーンズを履き
其れから紅いスェットを着ていたが
彼女の今日の服装に関して、僕は酷く不明だった。

店内が暗い為、まるで何も見えないのだ。
彼女がどんな服装で目前に座っているのか
其れに関して、だから僕は酷く不明だった。
服装ばかりか、彼女の顔も声もまるで判別できなかった。
だけれど恐らく、其処に彼女は存在しているのだろうし
だから僕は彼女と会話をした。

僕はカシス・ソーダを注文し
彼女はジャワ・ティーを注文した。
窓の外の木々は意味も無く延々と電飾を点滅させていた。

店内の空気は異様に煙たかった。
白く纏わる、其のクセまるで重さの無い煙が
店内の深い深い緑色の細い照明を浴びながら
僕等の周囲を何度も、宛も無く延々と浮遊していた。
僕は煙草を取り出し火を点けた。

店内のBGMがNOFXに変わった頃に
僕等の前にカシス・ソーダとジャワ・ティーが運ばれた。

店員は若い細身の男で、似合わない蝶ネクタイを締めて
別段愛想の無い態度で、腕にはロレックスをはめていた。
店内はおおむね穏やかだった。

僕等は随分と長い間、会話をしていた。
恐らく此の店に入る以前からずっと会話をしていた。
そして其れは本来、延々と続く長閑で在るべき会話だった。
僕は煙草を吸い込み、そして吐き出した。


「最近、どんな映画を観た?」


僕はそう言った。


「……と、其の前に乾杯だね」


僕はグラスを持ち、彼女もグラスを持った。
だけれど互いに特に乾杯すべき項目など見あたらなかった。
だから僕は小さく呟いた。


「じゃあ、さっきの店員の、趣味の悪いロレックスに」


僕等は静かに互いのグラスを合わせた。
グラスが音を立てたのだろうが、聴こえなかった。
相変わらず店内は薄暗く、彼女の表情はまるで見えず
BGMは店のおおむね穏やかな内装に対して悪趣味だった。

僕は煙草を大きく吸い込み灰を落とすと
彼女に対して先程と同じ質問をしてみた。


「最近、どんな映画を観た?」


其の質問に対し彼女が何かを答えたかもしれないが
此の店の環境の下では有益な返答になり得なかった。
まるで何も聴こえず、まるで何も見えなかった。
なので僕は一人、僕が観た映画の話をする事にした。


「最近は一人で色々な映画を観たんだ。
 しなければいけない事は他に沢山あったけれど
 すべき事など何も残されてはいなかったからね。
 だから僕は映画を観たんだ。

 其の中にこんな話があった。

 延々と会話もせずに歩き続ける男女の話。
 会話もせず、抱擁もせず、歩き続けるだけなんだよ。
 其の行為の行き着く先が何処かなんて判り切った事だろう。
 会話も抱擁もせず、宛も無く、歩き続けるだけなんだから。

 只、其処に、一般的で普遍的な
 男と女の間の愛や恋が存在するのか
 其れは僕にはわからなかった。

 そしてそういう狂気の中に、僕も堕ちたいと思った。

 だけれど其れには覚悟や勇気が必要だし
 更にもっと根本的な問題として
 経験と理解が何より必要だったのだけどね。

 僕は狂気に堕ちたいと願うだけで
 其れ等の感情に対して何も持ってなかったんだ」


其処で僕はカシス・ソーダを一口含み
新しい煙草に火を点け、深く煙を吐いた。
彼女は何も言わず、煙の向こう側に存在した。


「そう願いながら途中まで足を踏み入れた侭
 日常に戻ってしまった時の感覚は酷いモノだよ。
 まるで全てがぬるま湯の中に浸かってるようなモノさ。

 下手に狂気に足を踏み入れているから尚更性質が悪い。

 残酷で鋭利で卑猥な狂気の奥にこそ
 安楽ってのは眠ってるんじゃないかと思うね。

 そういう狂気なモノを求めて
 途中までやりかけて成就できなかった時に
 残されるのは淡々とした微温度の安楽なんだな。

 例えば女性と知り合い会話をして
 接近して接触してセックスしたとしてもね
 温度なんてモノはほとんど感じられない訳だよ。
 熱くも冷たくも無い、泥のような安楽が延々続くんだ」


其処でカシス・ソーダのグラスに手を伸ばすと
グラスは殆ど空だったので僕はジン・トニックを注文した。
店内にはAERO SMITHの『What it takes』が流れていた。

其の曲は僕の好きな曲だったけれど
此の店の選曲の基準には首を捻った。


「僕の周りの全ては、只、其処に存在し、変化していく。
 弱く。強く。儚く。
 僕がこうして話をしてる間も、きっとそうなんだろう」


窓の外を眺めると、車が数台通り過ぎていった。
向こう側の車線にはタクシーの長い列が見えた。
其の先頭のタクシーに若い男女が乗り込んでいた。
女の手にはオシャレな小さい紙袋が握られていた。
先に女が乗り込み、其の後で男が乗り込んだ。
雪は降っていなかった。


「僕は此処に戻ってから今日まで
 本当に様々な事を考えたけれど
 君も君で、様々な事を考えただろうね。

 僕は此処に戻ってから今日まで
 まるで熱くも冷たくも無い泥の中で
 毎日同じような事ばかり考えてたよ。

 過ぎた過去と、其れに付随する現在について。

 どうすべきだったのか。
 今どうするべきなのか。
 そんな事を。

 言分くらいあるだろう。
 君にだって。
 僕にだって。

 ほんの些細な間違いを知るだけで
 まるでもっと上手く出来たんだから。
 君にだって。
 僕にだって。

 だけど今更そんな事
 例えば
 誤解だとか、擦れ違いだとか
 君のせいだとか、僕のせいだとか
 そんな事、今はもう関係無いのだろうね。

 全ては変化するし、僕等は対応しないといけない。
 過去にどんな固い約束や信頼を感じてたとしても。

 僕が毎日延々とそんな事を考えてる間にも
 何時か交わした固い会話や抱擁を想う間にも
 君は何処かで誰かと抱き合ってるかもしれないね。
 とても、絶望的に、破滅的に、現実的に。

 僕の周りの全ては、只、其処に存在し、変化していく。
 弱く。
 強く。
 儚く。

 そして僕の言分は、延々と、僕の中にのみ向かうんだ」


店内には深く深く緑色の照明が沈澱していた。
煙草や酒や人の匂いで生成された空気も沈澱していた。
其れ等、沈澱された照明と空気の緩やかな土壌の上を
Jimi Hendrixが気だるそうに徘徊していた。

先程と同じ店員がジン・トニックを運んできた。
僕は其れを二口程飲み込むと、再び話を続けた。


「君が他の誰かと、抱き合い、汗かき、喘ぎ、果て
 性器を愛しく舐める事が変化の一つだとするなら
 僕の頭は狂うように痛む。
 其れから僕の中の、其の醜い執着と欲望を恥じる。
 だけれど本来、其れ等は恥ずべきモノだったろうか。
 何故、其れ等の感情を恥じるようになったんだろう。

 もしも全てに対して正直である事ができるなら
 僕はまず君を抱く誰かの頭を叩き割るだろうね。
 其れに対して君が驚いて僕から逃げたとしても。
 其れでも始めにきっとそうするんだろう。 

 其れから背後から君を掴まえるだろうね。
 そうして君を強引に引き寄せるだろうね。
 君が嫌悪な顔をしてもそうするだろうね。

 指に触れ、唇を奪い、髪を撫でるだろうね。
 君の耳を噛み、舐め、怖がらないでと囁くだろうね。

 そして僕は君を服の上から延々と愛撫するだろう。
 少しずつ服を脱がしたなら下着に唇付けするだろう。
 だけれど決して君の肌に触れる事無く愛撫するだろう。
 そう、君の肌に直接、愛撫などしないだろう。

 只、延々と、強く、弱く。

 只、延々と、掴み、離し。

 只、延々と、揉み、舐め。

 何時までも。

 君が果てそうになったら手を止め
 何処にもイカせなどしないだろう。
 只、延々と、僕の手の中で。

 君が喘ぐまでそうするだろう。
 君が濡れるまでそうするだろう。
 君が求めるまでそうするだろう。

 そうして
 やがて君が苦しそうに切なそうに
 僕の性器を求めだしたとしたなら
 いよいよ僕は君の下着を剥ぎ裸にして
 君の全てを美味そうに愛撫するだろうね。

 僕は固くなり、柔らかな君の中に入り込むだろう。

 浅く。

 深く。

 浅く。

 深く。


 時に無理に。

 時に丁寧に。


 やがて僕は君と一緒にイク。

 そうして安心するんだろう。


 だけれど
 そうして醜い執着と欲望に忠実になったとしても
 僕は君の全てに対して何も知る事は出来ないんだ。

 だから、恥じる」


言い終えると僕は深く息を吐き出し
氷の溶けたジン・トニックを五口飲んだ。

其のジン・トニックは、既にジン・トニックではなく
アルコールを含み、僕が飲むだけの、単なる液体だった。
氷の溶けたジン・トニックのグラスには水滴が付いており
其れ等も又、只、グラスに付くだけの、単なる水滴だった。

何処からか、ライムの香りがした。


「近しい誰もが僕を知ろうとする。
 知る事で理解し慈愛する事ができると思ってる。
 だけれど決して僕の全てを知る事などできない。
 其れを僕の経験が知っている。
 時に僕は其れをとても寂しく悲しい事だと思う。

 だとすれば僕も、誰も知り得ない事になるからね。

 僕は時に、親しい人に僕の事を話すし
 親しい人もまた、僕に自分の事を話す。
 だけど其れ等の行為の意味ってのは何なのだろうね。

 少なくとも少し前までの僕は
 其れ等の行為は互いの理解と慈愛を促す行為だと思ってた。

 例えば今日、僕は家を出て来る前に
 気に入ってた靴の紐が切れたんですよ、とか。
 だから今日は少し落ち込んでいますよ、とか。
 仮にそういう話をしたとしてね。

 そうすると話を聞いた人は
 ああ、今日は其の靴の紐が切れたのだな、と思うだろうし
 だから今日は其の靴を履いて来なかったのだと知るだろう。

 其れが僕の気に入ってた靴だったのだと知れば
 大丈夫、気にしないで、なんて言うかもしれない。
 わかるよ、なんて一緒になって落ち込むかもしれない。
 もしかしたら新しい靴紐を与えてくれるかもしれない。
 其れとも何も言わないかもしれない。

 だけれど僕を全て知った事にはならないんだな。

 そうなると其れ等の行為の意味ってのは何なんだろう。

 僕と君はとても沢山の会話をしたけれど
 僕は君の全てを知る事はできなかったのだろうし
 君も僕の全てを知る事はできなかったのだろうね」


店内のBGMは止まっていた。
彼女は静かに煙草に火を点け、浅く煙を吐き出した。
僕も、静かに煙草に火を点け、深く煙を吐き出した。


「僕は、音楽が好きなんだ。
 僕は過去に其れなりに楽器を演奏したし
 自分で色々と曲を作ったりもしてたしね。

 だけれど僕は君に
 僕の曲を聴かせた事も無かったし
 君の為に曲を作った事も無かった。

 其れ等の理由を君が僕に問う事も無かったし
 僕から其の理由を話す必要もまるで無かった。

 勿論、僕がそうしなかったのは
 僕の腕がまるで未熟だった事もあるけれどね」


機械の調子が悪いのか、BGMは止まった侭だった。
穏やかな内装の店内は、此の時、実に穏やかな店内だった。


「僕は音楽が好きなんだ。
 だけれど或る時期からあまり聴かなくなった。

 其れ等の理由を君が僕に問う事も無かったし
 僕から其の理由を話す必要もまるで無かった。

 音楽なんか惰性で聴いているんだ、僕は。
 何時だったか君にそう話した事があるね。
 そう、僕は音楽を惰性で聴いていたんだ。

 音楽に身を入れて聴き込んでしまう事は
 とてもとても残酷な事だよ。

 音楽なんて惰性で聴き流していくのが良かったんだ。
 音楽は形も無いのに何時までも残ってしまうからね」


静かに、音楽が流れ始めた。
静かに、店内に、10ccの『I'm not in love』が流れ始めた。

いよいよ僕は店の選曲センスを疑ったが
其れでも曲は静かに流れ続けた。

永延に終わらないかのように。

穏やかに。

緩やかに。


例えば

此の瞬間

僕等は此の音楽を、共有していた。

此の瞬間

僕等は此の音楽を、共有してしまっていた。

其れに付随する、纏わり付くような空気を共有していた。

まるで重さも無く纏わり付く空気を共有してしまっていた。

そして此の瞬間に此処に存在したモノを

例えば木々の見える大きな窓の在る席を

趣味の悪い時計をはめた店員の居る店を

其れからこうして会話する互いの時間を

此の音楽に付随して、既に僕等は共有してしまっていた。


とても静かな音楽だった。


僕はジン・トニックを飲み干すと
大きな窓の外の景色を眺めた。

雪が降っていた。
確かに降ってはいたが
其れはまるで温度を感じない雪だった。

僕は手を伸ばそうとしたが
当然のように目前には窓が存在し
店内は相変わらず薄暗い侭だった。

空のグラスを握ってみたが
やはり其処に温度は残っていなかった。

只、延々と、形も重さも無い煙が辺りを旋回し
只、延々と、形も重さも無い音楽が浮遊していた。

泥濘の奥底に潜む
許され得ぬ全てのモノとカイワ達が
延々と、無言の侭、僕を眺めていた。


「其れでも」


僕は此の延々と続く煙の向こう側に座っているだろう
姿も声も見えぬ、彼女に向けて言った。


「僕等は知った。

 僕等は互いの一部に関して、全てを知った。  
 僕等は互いの全てを知らなかったかもしれないけれど
 まるで互いを何一つ知り得なかった訳では無いし
 互いの全ての中の一部だけを知った訳でも無いんだ。

 只、僕等は互いの一部に関して、全てを知った。

 僕等は本当に沢山の会話を交わしたし
 僕等は本当に沢山の時間を共にしたし
 其れが本当に、互いの些細な一部だけだったとしても。
 そして、そう思わなきゃ、まるでやってられない」


BGMは
NIRVANAの『RAPE ME』に変わり
Pistolsの『SUBMISSION』に変わり
其れからJohn Lennonに変わった。

彼は「想像してごらん」と歌った。
其れから「傍に居て」とも歌った。

店内はおおむね穏やかだった。
そして脈絡も無くMozartの『Divertimento NO.15』が流れた。
クラシックを聴くのは久し振りだった。
其れはとりわけゆっくりとした、豊かで、穏やかな演奏だった。
実に、豊かで、穏やかな演奏だった。

其の静かな演奏は始めに、僕に優雅な庭園を連想させた。
素敵な庭園だった。
其処は上品な鉄柵に覆われた広い庭園であり
丁寧に刈られた芝生の上に色鮮やかな花が幾つも咲き
其れ等の花の上には実に健康的な太陽の光が注がれた。

僕は綺麗な花を一輪だけ摘み上げ、ポケットに入れた。
其れから其処に一本の細い木を見つけ
木の枝に止まる二羽の小鳥を見つけた。
白い小鳥だった。

彼等は丁度、僕の目線より少し高い場所に止まっており
僕は暖かく柔らかな彼等に触れようと、指先を伸ばした。
すると彼等は音も無く飛び立った。

やがて風景は拡がっていった。

芝生を越え、鉄柵を越え、木々を越えた。

気が付くと辺りは、延々と続く緑だった。

延々と続く緑の上に僕は一人で立って居た。

全てまるで緑だった。

風を感じた。

空が在った。


僕は其の延々と続く緑の上を歩いたが

全てまるで緑で在る為に

果たして自分が其処を歩いているのか

其れとも只、延々と足踏みをしてるだけなのか

わからなくなった。


風だけは感じる事ができたので

僕は其処が延々と続く緑などではなく

終わりの存在する緑なのだと知る事ができた。

なので僕は風を伴った緑の上を、歩いていた。

やはり頭上には空が在った。


其れから雲の存在を知る事ができ

其れ等が形を変化させながら流れるのを眺め

やはり是が延々と続く緑では無いと確信した。


絶えず風は吹き、雲は変化していた。

そして最後に僕は湖畔に辿り着いた。

其の湖は、どの河やどの海にも繋がって無く

只、延々と、雨水が溜まっていく場所だった。


何処に流れ出る事もなく

また

何処から受け入れる事もない

そういう湖だった。


木々が生い茂り、優しい日陰を作っていた。

其処で僕は腰を下ろし

煙草を吸った。


小鳥の鳴き声が聴こえた。

僕は、先程飛び立った小鳥の声かな、と思ったが

今では特にどうでも良い事だった。


煙草を吸い終えると、僕は湖畔の淵に立った。

湖畔の淵に立ち、水面を覗き込んだ。


色が無かった。

其れは酷く澄んでいて

一歩でも足を踏み入れると

何処までも何処までも落ちるような

延々と、深く、暗い、湖のように思えた。


僕は足を踏み入れようとして

だけれど湖の深さを思い知り

其の侭、其の場に座り込んだ。

そして辺りを見渡した。


其処には沢山の木々は生い茂ってはいたが

まるで花は咲いていなかった。


僕はポケットから

先程庭園で摘んだ花を取り出し

其れを土の上に、静かに置いた。


静かに、置いた。

とても綺麗な花だった。

だけれど、決して根を張る事の無い花だった。

其れでもやはり、其れは綺麗な花と湖だった。


何時か其の花が朽ち果て

此処で其の花が種を生み

此処に本当の花が咲けば

良いのに、と思った。




其れは酷く悲しく、寂しく、愚かな希望だった。




僕は煙草に火を点けようとマッチを取り出した。


すると雨が降り出した。


雨が降り出した。


雨が降り出した。


雨が降り出した。


其処で音楽は終わった。











BGMがRadioHeadに変わった。

僕は延々と拡がる緑と湖の淵に追い出され
大きな窓の在る小さなテーブルの席に座り
既に空になったジン・トニックのグラスを握っていた。

そう、此処は紛れも無く店の中だった。

決して延々と拡がる緑と湖の淵では無く
相変わらず形も重さも無い煙を従えながら
僕は只、其処に座り、延々と会話をしている客だった。
店内はおおむね穏やかだった。


「種をね、蒔いてきたよ」


僕は空になったグラスを握り
相変わらず薄暗い此の席で相対し
目前に存在するであろう彼女に向けて
静かに、そう話し掛けた。


「だけれど途中で物凄い雨が降ってきてしまったから
 其の種がどうなるかは最後まで見届けられなかった」


何故か僕は泣いていた。

どうかしていた。
此処は店内であるし
辺りには沢山の見知らぬ人が居た。
其れに泣く理由さえ無い筈だった。

だけれど、何故か僕は泣いていた。


「素敵な庭園を見たよ。
 花が咲いてたから一輪摘んできた。
 ああ、そういえば二羽の小鳥が居たな。
 
 其れから馬鹿みたいに広い草原も見た。
 僕は其処をずっと歩いていたんだよ」


泣く理由などわからなかった。
僕は延々と話し続けた。
其れは徹底的に、宛の無い会話だった。

泣く理由などわからなかった。
僕は延々と話し続けた。
まるで温度の無いグラスを握りながら。

店内に『Fly me to the moon』が流れた。
窓からは透き通った月が見えた。
僕等は互いに何も喋らなかった。

月は、只、其処に存在していた。

其処に飛んで行きたいと願うのも
其処に触れに行きたいと願うのも
其れ等と繋がるのは今の感情だけだった。

嗚呼、何時からだろう。
好きなモノを単純に好きと言えなくなったのは。
嫌いなモノを単純に嫌いと言えなくなったのは。

どうして僕は人を傷付けていくんだ。
どうして僕は人に傷付けられていくんだ。
どうして其の度に臆病になっていくんだ。
どうして其の度に孤独になっていくんだ。

だけれど今日も死なずに生きている。

僕は目を閉じた。


「月は好きだな。

 だけれど、月は悲しいね」


僕の目にはもうまるで何も映っていなかった。
僕の耳にはもうまるで何も届いていなかった。
既に此処には僕の声しか存在していなかった。

許され得ぬ全てのモノとカイワは
既に僕を解放していた。


「月には年老いた一匹の兎が居るよ。
 何も変化せずに延々と其処に居る。

 只、其処に居る。

 月の裏側は誰にも見せないし
 月の裏側は誰にも見せられない。

 只、其処に居る」


僕等は臆病で孤独だ。
少なくとも或る瞬間において
僕等は臆病で孤独だった。


「年老いた兎は其処に居る。

 酷く臆病で
 酷く孤独で
 だけれど決して死なずに」


僕の目にはもうまるで何も映っていなかった。
僕の耳にはもうまるで何も届いていなかった。
既に此処には僕の声しか存在していなかった。

他にまるで何も無い空間だった。
此処では僕自身が兎だった。

僕が再び此処から生まれ出ようとするならば
何らかの糸と繋がる必要があった。
過去と、過去に付随する現在への糸だった。
つまり、今という名で呼ばれ得る糸だった。

なので、再び、様々な色や音が生成された。
少しずつ其処に様々な音や形が生成された。

今へと繋がる糸をゆっくりと手繰り
僕は目を開けた。




店内はおおむね賑やかだった。

気が付くと店内は賑やかだった。
遠くの席で大きな笑い声が響いた。
派手なクラッカーの音も聴こえた。

窓の外には白すぎる雪が降った。
木々を彩る電飾が点滅していた。

兄弟達は抱擁をし
友人達は乾杯をし
恋人達は唇付けをした。

其れ等は例えば一般的に
幸福と呼ばれ得る光景だった。
そして再び、音楽が流れた。


John & Yokoの『Happy Xmas -War is over-』だった。


其処では既に戦争は終わり
延々と雪が降るだけだった。

其処では既に戦争は終わり
誰もが聖夜を讃美していた。

僕は其の雪の中で彼女の手を握り
ひたすらに存在して居たいと思った。

酷く冷たい雪と
酷く温かい手を
此の瞬間に存分に体感して居たいと思った。

もう戦争は終わったのだと歌いながら。

其処では既に戦争は終わり
延々と雪が降るだけだった。

其処では既に戦争は終わり
誰もが幸福を体感していた。

僕等は其処でもう何の心配も無く
只、種を蒔き、花を待ち侘びる事ができた。
少なくとも、在る瞬間において、僕等はそうだった。

酷く冷たい雪と
酷く温かい手を
其の瞬間に存分に体感しながら。
そうした侭、僕は穏やかな狂気に堕ちていきたかった。

歌は延々と続いた。
歌は終わる事無く延々と続いた。
そして愚かにも僕は
歌を延々と聴き込んでしまっていた。


嗚呼、思い出してしまう。

きっと此の歌を聴く度に思い出してしまうだろう。

今日の会話の事を。

今日の空気の事を。

重さも無く漂う空気の事を。

煙と酒の混ざる匂いの事を。

深い深い緑色の照明の事を。

窓から眺めた木々の電飾の事を。

カシス・ソーダやジン・トニックの事を。

其れから、彼女の事を。


きっと此の歌を聴く度に思い出してしまうだろう。

其の度に様々な強烈な衝動が僕の中を叩くだろう。

変化も出来ぬ侭に取り残された感情が叩くだろう。

もっと強くなれと。

もっと弱くなれと。


そして只、其れ等は延々と其処に居るだろう。

其処に居ながら何度でも思い出してしまうだろう。

苦しむだろう。

苦しむだろう。

苦しむだろう。

そうしてやがて

まるで忘れてしまうだろう。


只、延々と其処から離れられずに

強く、弱く、儚く、変化も出来ず

忘れぬように思い出すようになり

そうしてやがて

まるで忘れてしまうだろう。


だけど今は。

せめて今は。

此の瞬間は。

僕は何を感じている。


全ては只、其処に存在するだけで

本来、其処に理由や役割など無く

全ては只、其処に存在するだけで

其れ等と繋がるのは今だけだった。


雪が降っていた。

音楽が流れていた。

木々の電飾が点滅していた。

人々は酒に酔い抱擁を交わした。

何か大きな音がした。

笑い声が響いていた。



此の瞬間が何時までも続くなら

誰もが幸福なのかもしれなかった。


僕等はそんな瞬間を保存したくて

何度も

何度も

幾つもの幼く拙い約束を交わした。


だけれど本当は
今は今にしか無い事を知っていた。
保存などできない事を知っていた。

全ては絶えず変化する事を知っていた。
僕等は常に対応しなければいけないと。
そうしなければ生き延びられぬのだと。


そして、月が見えた。


どんな変化の最中にも
どんな破壊の最中にも
どんな再生の最中にも



月が見えた。


最期に店内に流れたBGMは
僕等がよく聴いた曲だった。
曲名は忘れてしまった。



今、此処で流れた。



今が今にしか無いのならば



僕は此の泥濘の底から



やはり君の名を呼ぶだろう。



今を叫ぶしか無いのならば



僕は目の前に座る筈の



やはり君の名を呼ぶだろう。







何も見えず



何も聴こえぬ



過去と現在から



狂気の狭間から



強く



弱く



儚く



変化をして



変化もせず



やはり君の名を呼ぶだろう。










僕が呼ぶべき




君の名を




今の名を




せめて




せめて




せめて




もう少しだけ




忘れないように。
















































































そして、サザウタだけが、響いた。



































『サザウタ -許され得ぬ全てのモノとカイワについて-』

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