■さ行
終末のピルクル




それでも、それでもね、聞いて欲しいんだ。

悲劇と喜劇が古びたヴィデオ・デッキの中で断続的に再生されるように、
おおよそ重要な悲しみと喜びは、断続的に繰り返される。

僕は1999年の予言が外れた時に、愕然とした人間の中の一人だ。
1999年の予言とはノストラダムスの予言を指して居て、
ノストラダムスの予言とは、大抵の場合、以下の内容の四行詩を指す。


 一九九九年 七の月

 空から恐怖の大王が降ってくるだろう

 アンゴルモアの大王を復活させる為に

 その前後マルスは幸福の名の元に支配するだろう


当時の世間は四行詩に様々な意味を付けて、
好奇と興奮の入り混じった悪趣味な悪戯のように、
興味本位の雰囲気の中で、世界の終わり方を考えた。

ところが世界は滅亡したりせず、
僕は平和な面を下げて、本日、ピルクルを飲んでる。
甘さスッキリ、毎日飲んで、おなか健康なのだ。


「にゃあ」


飼い猫のイリーナが、僕の膝の上で声を出した。
イリーナは「ぶるるるる」と喉を鳴らすと、そのまま目を瞑った。

僕はピルクルをストローで一口吸うと、
雑誌に視点を落とし、空いた右手でイリーナの肌を撫でた。
其れから青い色をした小さな錠剤を、イリーナの口の中に含ませた。

1999年に世界が滅びなかった際に、奇妙な感覚だったのは、
「世界は滅びないのだ」
と判断するのが何月何日なのかが、イマイチよく解らなかった事だ。

四行詩には「七の月」と明記されては居るが、
其れは現代の7月を指す訳ではなく、実は9月の事だとか、
そもそも四行詩に「世界が滅びる」とは書かれて居ない、だとか、
其れが何時を表すのか、イマイチよく解らなかった。

アンゴルモアの大王とは巨大な隕石だとか、
衛星カッシーニだとか、何処かの国のミサイルだとか、
世の中の様々な情報を追いかけて行く内に、呆気なく1999年は終わった。

僕等は滅びたのか?

否、滅びては居ない。
其の証拠に、僕は平和な面を下げて、本日、ピルクルを飲んで居る。
膝の上ではイリーナが大きな目を閉じて、小さな寝息を響かせて居る。

世界など滅びてしまえば良かった。
僕は1999年の予言が外れた時に、愕然とした人間の中の一人だ。
少なくとも1999年において、僕の中での世界は、滅びるべき存在だった。

1999年の4月に、彼女は死んだ。
其れが4月の何日だったかは、よく覚えて居ない。

奇妙な事だけれど、時間はよく覚えて居る。
AM4:13。

4月の最後の日に、僕は猫を飼った。
本当ならば、彼女の誕生日だったからだ。

僕は部屋に帰るとケーキの箱を開け、
飼い始めたばかりの猫と一緒に、短い歌を唄った。
其れから何故か泣きながらケーキを食べたのだけれど、
猫が「にゃあ」と鳴くので、指に付いた生クリームを与えてみた。

猫は僕の指を噛んだ。
血が丸く噴き出して、すぐに糸のように流れた。
流れた血を舐めながら、僕は壊れるように泣いたのだけれど、
猫は短く「にゃあ」と鳴いて、窓際に座り、三日月を眺めるだけだった。

猫にイリーナと名付けたのは僕では無い。
生前の彼女だ。
彼女は小さな瓶を手に取りながら、僕に言った。

「誕生日には猫が欲しい」

「猫?」

「猫が欲しい」

彼女の誕生日の一ヶ月くらい前の会話だったか。
彼女は不意に、其のような事を言った。
彼女の声は猫みたいだった。

「駄目?」

「良いけど、珍しいね、自分から欲しいモノを言うなんて」

「あ、酷いな、猫はモノじゃないよ」

「猫好きだっけ?」

「見てコレ」と言いながら、彼女は小さな瓶を振った。
小さな瓶の中には、青い色をした錠剤が、大量に内包されて居た。
小さな瓶にはラベルさえ貼られておらず、表面は透明に透き通って居た。

「何?」

「猫のクスリ」

「何だか怪しいなぁ」

「猫が人間になっちゃうクスリ」

彼女の台詞は「何だか怪しい」では無く「完全に怪しい」台詞だった。
其れでも僕は、其れを彼女特有の冗談なのだと捉えた。
猫が人間になるクスリなど存在しないから。

「何その"大人の学研"の教材みたいなクスリ」

「何その"大人の学研"の教材って」

「毎月届けられるんだよ」

「"大人の学研"?」

「そう、毎月"学習"と"科学"が届けられる」

「"学研のオバサン"の手によって?」

「おお、すごい、よく知ってるね」

「昔、ウチにもよく来てた」

僕等はくだらない冗談を言い合い、そして眠った。
彼女の小さな瓶は、長い間、テレビの上に置かれて居たはず。

眠りに就きながら、"大人の学研"を届けるオバサンは、
恐らくはオバアサンに違いない、などとくだらない考えた。

僕にせよ、彼女にせよ、猫が人間になるクスリに真実味など無かったし、
今年中に訪れるノストラダムスの予言にも、真実味なんて無かったんだ。
彼女が居なくなるまでは。


 一九九九年 七の月

 空から恐怖の大王が降ってくるだろう

 アンゴルモアの大王を復活させる為に

 その前後マルスは幸福の名の元に支配するだろう


本日。
僕はイリーナを膝の上に載せて、
ピルクルを飲みながら、雑誌に視点を落として居る。
イリーナに青い錠剤を飲ませてから、もう何分が経っただろうか。

突然。
イリーナは小さく痙攣すると、短く嗚咽を漏らした。

心配する事では無い。
極めて普段通りの正常な反応だ。
イリーナの細胞が音を立てるように変化する。
急激な速度で骨格が変化し、内臓が変化し、皮膚が変化する。

イリーナは数分後に、人間になる。
青い錠剤の効果が表れる、ほんの数時間だけだけれど。
僕は膝の上で形を変えていくイリーナを、何も言わずに眺めて居る。
悲鳴にも似た変化は、残酷か、否か。


「飼い猫を人間にして、どうすんの?」

「飼い猫と話せるなんて、とても素敵じゃない」


彼女が残した短い台詞が、彼女の意思を表現して居る。
彼女は会話がしたかったのだ、猫と。
実に単純な欲求だと思う。

世界など滅びてしまえば良かった。
僕は1999年の予言が外れた時に、愕然とした人間の中の一人だ。
少なくとも1999年において、僕の中での世界は、滅びるべき存在だった。

僕は誰かを求めて居たが、目的の誰かは見当たらなかった。
進むべき衝動を抱え込んでは居たが、進むべき場所が見当たらなかった。

会話を求めて居たし、包容を求めて居た。
部屋の中で何かに手を伸ばして居たが、全ては天井に邪魔された。

無いんだ。
何も無い。

僕を引き止めるべきモノなんて何も無く、僕以外には何も無い。

1999年の7の月が近付いても、
一向に世界は終わろうとはしなかった。
僕は部屋を見渡した。

テレビの上に置かれたままの小さな瓶に気付いたのは、
1999年の7月13日だった。

僕は青い錠剤を一粒取り出すと、其れをイリーナの口の中に含ませた。
先程と同じように。
イリーナは僕の目の前で、音を立てながら変化した。
現在と同じように。


「お前、またクスリ飲ませたにゃ?」


この台詞は、本日。

イリーナは僕の膝の上に頭を乗せて、
大きな目を開くと、開口一番、僕に憎まれ口を叩いた。
其のままの姿勢で手だけを伸ばすと、冷たい指で僕の頬に触れた。

「あり?泣いてた?」

「泣いてないよ」

「ウソだね」

長く伸びたイリーナの爪が、僕の肌に当たった。
イリーナの体は、女性の体であり、要するにイリーナは全裸だった。

「キミがボクにクスリを飲ませる時って、決まってそんな顔してるよにゃ」

「どんな顔?」

「どんな顔って、お前、自分で鏡でも見ろよにゃ」

イリーナは猫の時と、人間の時で、記憶に差異が生じる。

恐らく脳の構造も変化する訳だから、
人間の時の記憶は、人間の時にしか再生されない。
一方で猫の時の記憶は、酷く不鮮明になるのだと、イリーナは言う。

「寒いにゃ」

「イリーナの着物は、何時もの場所」

「にゃー!」

全裸のイリーナは、全速力で餌に向かう猫のように(猫なのだが)、
部屋の隅のクローゼットに向かって一直線に駆け出した。

「イリーナ、ピルクルあるよ」

「飲むー!」

イリーナはクローゼットを開けながら、可愛い声で叫んだ。
おおよそ猫が人間に変化すると言っても、外見は人間と変わらない。
外見が人間と変わらないように作られたクスリなのだろうから、当然だ。

着物を羽織ったイリーナが、此方に走ってくるのが見えた。
満面の笑みで走ってくるので、思わず笑ってしまう。
子供のようだし、まるで猫のようだ。
否、イリーナは猫だ。

「走るほど広い家じゃないでしょ」

「ピルクルー!」

「はい」

着物を着たがる猫も珍しければ、
着物姿でピルクルを飲みたがる女も珍しい。

黒く染められた着物(否、浴衣と呼んだ方が良い)を着たイリーナは、
両足を曲げて床に座り込むと、両手で飲みかけのピルクルを受け取った。

器用にストローを吸う表情は真剣そのものであり、笑える。
飲み干すと顔を上げて「んまー!」と叫んだ。

「んまいなぁ」

「んまい!もう一杯!」

「何処で覚えんの、そういうの」

イリーナが人間で居られる時間は、一錠で約六時間くらいだった。

六時間の使い方は、その時によってまちまちで、
一緒に映画を観に行く事もあれば、家でゲームをする事もある。
イリーナは「テトリス」が下手で、何故か「ぷよぷよ」は上手いのだが、
本人に理由を訊ねると「可愛いから」という回答が返って来た。

四錠飲ませれば一日人間で居られる計算だが、試した事は無い。
副作用が怖いし、本当に必要な時だけ、僕はクスリを使った。
小さな瓶の中の錠剤は、もう残りわずかだった。
クスリが切れた時、僕はどうなるのか。

「今日は何する?」

「そうだな、別に何もしたくないね」

「にゃんだそれ?用も無いのに呼ぶなよにゃー」

用も無いのに呼んだというか、イリーナは何時もココに居る。
人間になると、猫の記憶が無くなってるだけなのだが。
じゃあ猫に戻った時は、何を考えてるのだろう?

「普段、イリーナはさ、何を考えてるのかね」

「普段?」

「猫の時」

「覚えてないからにゃあ」

「さっきまではさ、僕の膝の上でさ、寝てたんだよ」

「ふぅん」

イリーナは呟くと、立ち上がって冷蔵庫を開けた。
黒色の着物にシワが付いてしまった。
イリーナは気にしない。

自分の行動の記憶が無いというのは、どんな感覚だろうか。
自分の知らない別の自分が存在するというのは、どんな感覚だろうか。

猫は僕の指を噛んだ。
血が丸く噴き出して、すぐに糸のように流れた。
流れた血を舐めながら、僕は壊れるように泣いたのだけれど、
猫は短く「にゃあ」と鳴いて、窓際に座り、三日月を眺めるだけだった。

イリーナは、きっと其れを覚えては居ない。

悲劇と喜劇が古びたヴィデオ・デッキの中で断続的に再生されるように、
おおよそ重要な悲しみと喜びは、断続的に繰り返される。

イリーナは断続的な記憶の中で、何を感じて居るだろうか。
目覚める度に泣きそうな僕の顔を見て「あり?泣いてた?」なんて言う。

停止した記憶は、何を感じるだろうか。
現在の僕を見たならば、彼女は何を感じるだろうか。

(飼い猫を人間にして、どうすんの?)

(飼い猫と話せるなんて、とても素敵じゃない)

問題なのは、飼い猫の方に、猫としての記憶が無い事で、
人間になったイリーナは、何処から見ても普通の女の子なんだ。
僕は彼女とは別の普通の女の子と映画に行き、ゲームをし、会話をする。

それでも、それでもね、聞いて欲しいんだ。

僕は1999年の予言が外れた時に、愕然とした人間の中の一人で、
世界なんか滅びてしまえば良かったのにと思った人間なんだけれど、
其れでも本日、何とか、今も、こうして、呑気に、生きて居るんだよ。

「ピルクルー!」

冷蔵庫を開けながら、イリーナが叫んだ。

「無いよ、さっき全部飲んだじゃん」

「ピルクルー!お前買って来いよー!」

「飼い主に何て素敵な口の聞き方をするんだ」

「やだー!ボクは今ピルクルが飲みたいんだー!」

「わかった、わかった、コンビニに買いに行こう、な?」

僕は笑いながら立ち上がると、ジーパンに着替える。
まだイリーナは冷蔵庫を物色し、野菜室まで開けようとしてる。
残念ながら野菜室にピルクルが隠されて居る可能性は、非常に低い。

「おなかすいたにゃー」

あと何分、あと何秒、あと何錠、
僕がイリーナと一緒に居られるのかは解らないし、
ある日、突然、全ては終わってしまうのかもしれないけれど。

全てが終わりそうに感じる度に、
僕は苦しんだり、悲しんだり、するのかもしれないけれど。

それでも、それでもね、聞いて欲しいんだ。

僕は世界が滅びなくて良かったと思ってる。
彼女を失い、もしかしたらイリーナを失うとしてもだよ。
其れでも今、現在、世界が滅びなくて良かったと思ってるんだよ。

悲劇と喜劇が古びたヴィデオ・デッキの中で断続的に再生されるように、
おおよそ重要な悲しみと喜びは、断続的に繰り返される。

そして考える。
何処へ進むべきか。何処へ行くべきか。

巨大な隕石が落ちる時。
衛星カッシーニだとか、何処かの国のミサイルだとか、
今度、また空から恐怖の大王が降ってくると言われ始める時に、
僕は何処に居るべきなのか、と考える。

火星にでも逃げようか?
出来れば、そうだな、イリーナを連れて。
其れから、彼女の記憶を連れて。

錠剤はどうしようか。
まぁ、ピルクルは忘れずに。

「イリーナ、行くよ」

其の瞬間、僕が見たイリーナは、
黒色の着物から伸びた、白色の細い腕で、
冷蔵庫の中から取り出した、よく熟したオレンジを、
舌を出して、舐めるようにして、食べて居た。

其れは酷く淫靡な光景だったが、
驚くほどに崇高な生命を感じさせる姿だった。

(Avant apres Mars regner par bonheur.)

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