■さ行
其れは通り雨。そして雨。 -前編-
僕とミチルが交わした其れは、約束とも呼べぬ約束で。 相手がミチルじゃ無いのなら、果たす必要も無い約束で。 只、僕の右手と左手に、同じ重さの其れが在るなら、片方はミチルのモンだ。
ミチルが受け取るべきモンだ。
だから僕は日曜日の終わりから月曜日の始まりまで、火曜日を経て水曜日を泳ぎ、
木曜日に呆れ、金曜日に忘れ、土曜日に思い出し、ようやく此処に来たという訳だ。
今更だろう、ミチル。
何せ僕等の約束は、十年近く前に交わされた約束だった。 小学生の終わりに、交わした言葉なんだから。だから今更、そんな言葉には、
「何の効力も無い」 人通りの多いハンバーガー・ショップの前。真ん前。 見慣れた光景は、見慣れてしまった光景だ。
何故なら此処には十年前、小さな公園が在ったんだから。 其れが今じゃハンバーガー・ショップで、あろうことか、もう見慣れてしまっている。
白い自動車が、ドライブ・スルーを、ドライブ・スルーする。 幼い僕等がブランコを経て、砂場へ駆けた瞬間のように。
ミチルは足が速かった訳でも無ければ、遅かった訳でも無く、 誰よりも大きくブランコを漕ぐ訳でも無く、砂場で遊ぶのが上手かった訳でも無い。
口数が多かった訳でも無く、毎日公園に来ていた訳でも無い。そもそも、 「仲が良かった訳でも無い」
ミチルが言った冗談を、僕は思い出す事が出来ない。 其れどころか声も、歩き方も、住んでいた家さえ覚えてはいない。
だけれど唯一、ミチルが泣いた日の事は、よく覚えている。 砂場の隅に立てられた、青い小さなトンネル状の土管の中で、ミチルは泣いた。
ミチルは隠れんぼが苦手だった。其のくせ見付かりにくい場所に隠れる癖があった。
何時も一番最後に見付かるのがミチルで、其のままずっと見付からない時もあった。
なのに、あの日のミチルは酷く単純な、誰でも思い付くような土管の中に居た。
後から隠れに来た僕と、たまたま(隠れんぼに「たまたま」は変な表現だ)鉢合わせた。 「……何してんだ?」
隠れているに決まっているのに、僕は訊いた。 訊かずに居られなかったのは、其処がミチルにしては場違いな隠れ場所だったのと、
「……何で泣いてんだよ?」 ミチルが膝を押さえて何かを堪えていたからだ。 「うわ、血、出てんじゃん!」
身を低くして近寄ろうとした瞬間。 「駄目っ!」 ミチルが静止して、慌てて止まる。 一面にガラス片。
割れたビール瓶と、下品な雑誌の切れ端。 「危ねっ」 膝を切る寸前、僕は息を飲んだ。
「……近所の兄ちゃん達だな」
外では隠れんぼの鬼が、僕等を捜し始めていた。 「ミチル、一旦外に出よう」 僕はミチルの手を握り、破片を避けるようにして外へ出ようとした。
まだ血が流れているし、家に帰って消毒した方が良い。 しかしミチルは逆方向へ、僕の手を引いた。
「……駄目、嫌だ」
其れは小さく、だけれど強い口調だった。
「何で?」 「鬼に見付かるから」 「……馬鹿じゃないのか、お前」
ミチルは手の力を弛めようとはしなかった。 何を其処まで、鬼に見付かるまいとするのか解らないが。
僕にせよ、別にミチルを無理に引きずり出すほどの義理は無いのだし。 「じゃ、勝手にしろよ……」 普段のミチルの隠れ場所ならば、いざ知らず。
此処は見付かりにくい場所でも無いのだから。 黙っていても、いずれ見付かる。
ミチルは膝を曲げると、其のまま両手で膝を抱えた。
小さな土管の中で背中を丸めて、小さな穴から外の様子を眺めていた。 膝から血は流れていたけれど、そんな事よりも、自分が鬼から見付からないか、
其れだけがミチルにとっての、関心事の全てのようだった。
「痛くないのかよ」 「別に……」 「ふん」
別にミチルを放って、此処から出ても良い。 だけれど、わざわざ自分から出て行く理由も無かった。
僕はミチルじゃ無いから、此処より素敵な隠れ場所は知らない。 僕はズボンのポケットに手を入れて、丸まった汚い布切れを取り出した。
「……巻いとけよ、これ」 「何それ?」 「……ハンカチだよ、うるせぇなぁ」
母親にハンカチを持たされている事が恥かしい事だって、 年頃の男子なら皆知ってる。
だからハンカチなんてのは、人前で取り出すようなモンじゃない。
「……ありがと」
汚いハンカチを受け取ると、其れをミチルは器用に巻いた。 「何も無いよりはマシだろ」 「うん、少しマシね」
どうせ、すぐ鬼に見付かる。 だって此処はそういう場所だから。大した事のない場所なんだ。
小さな穴から外を覗けば、鬼が何処を捜しているのか、手に取るように解る。
ミチルの膝に巻いたハンカチが、ミチルの血を止める前に、簡単に見付かるだろう。
隠れんぼがずっと終わらないなんて、世界はそんな風には出来ていないんだ。
「……あ」 不意に、ミチルが小さく声を出した。
「どした?誰か見付かったか?」 「ううん、違う」 「何だよ。言えよ。膝、痛いのか?」 「ううん、違う」
瞬間、僕も気付いた。 土管の低い天井から、響くような音。 慌てて来た道を振り返ったけれど、外の様子は見えない。
そして、ミチルが言った。
「雨」
轟音。 土管の外を、突然の雨が襲っていた。
小さな穴をミチルが占領していて見えなかったけれど、僕にも解った。 土管の外で、雨が降っている。大量の雨。雨。雨。
だから僕等は、何処へも動けなくなった。 一体、誰が僕等を見付ける?
やがて公園から、子供達は消えた。
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