■さ行
其れは通り雨。そして雨。 -後編-




鼓動が、水を跳ねる音が聞こえる。
鼓動を伴った水が水を跳ねて、また別の水を跳ねる。
跳ねた水が重なって、また別の水溜りを作る。其の水も、跳ねる。

人影が近付いて、僕等は息を殺した。
身を低く丸めて、暗闇に飲まれようと努めた。
「何?何?」
ミチルが不安げな声を漏らしたので、其の口を塞いだ。
「近所の兄ちゃんだ、多分……」
小声で伝える。
恐らく男の方は、近所に住んでいる高校生。女の方は解らない。
「もう喋るなよ、ミチル……」
ミチルの口を塞いだまま、僕は穴を覗いた。

男女は手を繋いで走り、もうすぐ近くまで来ていた。
雨を避ける為に、此処に入る気だろうか。
この青いトンネル状の土管は小さいが、横には長く10m以上ある。

僕とミチルは中央より左寄りの位置に身を隠している。
もしも男女が右側の入口から中に入れば、息を殺して身を潜めていれば、
暗闇に隠れて見付からないはずだった。足音は次第に大きく、近くなった。
声が聞こえる。

「ああ、何だよ、この雨!ほら、早く入れよ!」
「ちょっと!何なの、この穴?こんなトコで休む気?」
「うるせぇ、いいから早く入れよ、濡れるよりマシだろうが!」

とっくに濡れているのに、男は乱暴気味に言った。
強引に促されるようにトンネルに入ると、女は小声で文句を言った。
僕等とは逆方向の、右側の入口。穴から漏れた光で、影が動いているのが解る。

(……何?)

耳元からミチルの小声。喋るな。見付かるだろ。
影が動き、ミチルは其れを見ている。不安なのか、僕に体を寄せた。
動くなよ。黙っていれば、向こうからは僕等が何なのか解らない。影を動かさなければ。
多少の声ならば雨音が隠してくれる。だけれど影は、動かしてはいけない。
気付かれてはいけない。ミチル、これは単なる隠れんぼなんだ。

(……大人から、隠れるんだよ)
(……何?)
(……得意だろ、隠れんのなら)

ミチルは隠れんぼが苦手だった。其のくせ見付かりにくい場所に隠れる癖があった。
何時も一番最後に見付かるのがミチルで、其のままずっと見付からない時もあった。
ミチル、隠れんぼっていう遊びは、見付けられる部分に面白さがあるんだよ。
見付けられないままの隠れんぼなら、最初から居なくたって同じ事なんだ。
だけどね、ミチル。今は見付からない為の隠れんぼをするんだ。
大人に見付からない、隠れんぼだよ。

(……得意だろ?)
(……うん)

男女の影は初めの内、小さな言い争いをしていた。
女の子が甲高くて、其の声が雨音を裂くように聞こえてきた。
「ちょっと汚い!何なの此処!ガキの遊び場じゃん!」
続けて男の低い声。声変わりを終えた、低い声。
内容は聞こえない。再び女。
「だから!最初から家に行ったら良かったんじゃん!」
雨音。乱暴な雨音。瞬間、風。小さな穴から、風。
「親がいるとか知らないから!……ちょっと!」

暗闇の中で、僕とミチルは動かなかった。
体育座りの姿勢のまま、息を止めるように動かなかった。
少しでも動いて、大人に気付かれてしまうのが怖かった。
自分の存在を知られる事を、極端に恐れていた。高校生が怖かった。

もし見付かったら殴られるだろうか。何も悪い事をしてないのに?
殴られるかもしれない。何時だって大人の考える事は解らない。
高校生くらいの大人が考える事が一番、僕等には特に解らない。

だって彼等は、親や先生よりも、ずっと僕等に近いはずなのに、
何時だって誰よりも大人ぶっている。僕等を遠ざけようとする。
僕等を邪魔な者(其れは例えば、大嫌いな自分自身)を見るような目で見る。
だから隠れなければいけない。大人に見付かってはいけない。

(……あれ何?)

僕の思考を遮るように、耳元でミチルが呟いた。
首を動かさないように、視線だけを動かす。
女の甲高い声は、もう聞こえてこなかった。
代わりにフタツの影が、静かに動いていた。

(キス、してる……)
(え?)

瞬間、割れたビール瓶と、下品な雑誌の存在を思い出した。
僕の足下に転がっている、近所の兄ちゃんが置き忘れた、下品な雑誌。
ビール瓶の破片。
破片。

(何?)
(いいから見るな!)

鼓動。
僕の心臓が、血液を圧し出す音が聞こえた。
急に黙っているのが辛くなって、何処かに逃げ出したい気分になった。
雨音が、其れを拒絶している。
僕に逃げる場所は無くて、只、其の影から目が離せなくなった。

影が動く。

衣服が擦れる音

聞こえるような気がする。

地面。
濡れている。
小さな雨は濡らしていく。

水は一方向へ。
やがて定められた場所へ。
馴れ親しんだ場所から、知らない場所へ。

「あ、駄目……」

瞬間、光。
小さな穴から、一瞬の光。
足元の下品な雑誌の、カラー・ページ。
其れと同じ色をした、女の肌。
被さるような、男の息。
再度、闇。

「きゃ!」

突然、ミチルの声。
振り返る。見えない。手を握る。
影が動く。

「誰だ!?」

男の声に反応するように、僕は叫んだ。

「逃げろ!」

ミチルを強引に圧し出す。
低い姿勢のまま、ビール瓶を踏み潰す。
突風。轟音。雑音的な無音。静寂とは正反対の無音。

僕とミチルは手を繋いだまま走った。
決して後を振り返らずに走った。
雑音だらけの中を走った。

僕等は逃げた。
逃げる為だけに逃げた。
大人に捕まらない為だけに逃げた。

途中、走りながらミチルが大声で何かを問いかけたけれど、
まるで聞こえなかった。
気が付くと、見知らぬ団地の自転車置き場にいた。
鉄製の屋根に雨が降り落ちて、不細工な音楽を奏でていた。

「はぁ、はぁ、はぁ」

息は白く、頭の中も白く、また言葉だけが。

「はぁ、はぁ、はぁ」

僕等を飽きもせずに、動かそうとしている。

「はぁ、はぁ、はぁ、もう大丈夫?」

もう大丈夫。追って来ない。
そもそも追ってなんか来るもんか。裸のままで。
自転車置き場の屋根が奏でる不細工なドレミに合わせて、僕は言った。

「ここまで来れば、もう大丈夫」

結局、僕等は濡れてしまった。ズブ濡れだった。
ミチルが巻いたハンカチから血が流れて、靴下まで届きそうだった。

「おい、足、大丈夫かよ!」
「……あ、忘れてた」
「痛くないか?」
「全然」

目の前には、見知らぬ団地。
普段は近付く事の無い、見慣れぬ棟。
僕が住んでいる棟とは、まるで反対方向だった。

「変な棟に来たな」
「N22棟」
「まさか、お前ん家?」
「ううん、新聞配達で、来るから」

手伝いで、と付け加えると、ミチルは呼吸を整えた。
其れがお婆ちゃんの手伝いだという事には、僕でも気が付いた。
其れからミチルが来年の春、別の中学校に進む事を、また思い出した。

「……何だったの、あれ」

高校生の男女の影。息。肌色。
ミチルの疑問に、僕は何も答えなかった。
あれが何だったのか、僕もミチルも、本当は知っていた。

大人になる事。
僕等の知らない、何者かになる事。
馴れ親しんだ場所から、知らない場所へと、流れる事。

右手に過去。左手に未来。
僕等の体を経由して、或る方向へと流れていく、時間。
何時までも隠れていてはいけない。やがて姿を現して、笑うんだ。
だから僕等は、いずれ。

「見付からなくちゃな」

雨音は次第に弱くなっていたけれど、まだ止みそうには無かった。
其れは通り雨。そして雨。何時か晴れるまでの青い雨。
終わらない事は無いはずの雨。だとしたら、

「帰ろうか」

僕は自転車置き場を離れて、振り返った。
今更、これ以上、雨に濡れても、別に支障は無かった。
赤く染まったハンカチを膝に巻いて、佇んでいるミチルが見えた。

「……どうなるの?」
「え?」
「じゃ、この隠れんぼ、どうなるの?」

ミチルが、雨音の中を、泳ぐような声で言った。
さてね、無効だろ、だなんて言う気にはなれなかった。
僕とミチルは何故だか、この時、まるで共犯者のようだった。
何らかを共有した理解者のような気分だった。

「……見付けるよ」
「え?」
「じゃ、僕が見付けてやるよ、今から鬼になってさ」

ミチルは眉間にシワを寄せて、不思議そうな表情を浮かべた。
まったく初めて見る、ミチルの表情だった。
だから僕は笑った。

「別の中学、行くんだろ?」
「うん」
「だったら僕が、見付けてやるよ」
「うん」
「僕が、何時か必ず、お前を見付けてやるよ」
「……どうやって?」

今は無理だ。僕等は子供だから。
隣町に行く事さえも、自転車を漕ぐのは大変なんだから。
だけれど僕等は思い出すだろう。何時かは今日を、懐かしく思い出す。
この雨を。止まない雨を。男女の影を。下品な雑誌を。割れたビールの破片を。
身を潜めた息遣いを。赤く染まったハンカチを。青いトンネルを。僕等の約束を。








「大人になって」








僕とミチルが交わした其れは、約束とも呼べぬ約束で。
相手がミチルじゃ無いのなら、果たす必要も無い約束で。
只、僕の右手と左手に、同じ重さの其れが在るなら、片方はミチルのモンだ。
ミチルが受け取るべきモンだ。

だから僕は日曜日の終わりから月曜日の始まりまで、火曜日を経て水曜日を泳ぎ、
木曜日に呆れ、金曜日に忘れ、土曜日に思い出し、ようやく此処に来たという訳だ。

右手に過去。左手に未来。
ミチルは今も隠れたままだ。あの汚れたハンカチを膝に巻いて。
僕が見付け出さなければ、ミチルは外に出る事も出来ない。笑う事も出来ない。

人通りの多いハンバーガー・ショップの前。真ん前。
見慣れた光景は、見慣れてしまった光景だ。
何故なら此処には十年前、小さな公園が在ったんだから。
其れが今じゃハンバーガー・ショップで、あろうことか、もう見慣れてしまっている。

白い自動車が、ドライブ・スルーを、ドライブ・スルーする。
幼い僕等がブランコを経て、砂場へ駆けた瞬間のように。
青いトンネルの中から、あの小さな穴を覗いたように。
世界中の全てを、知り尽くした気分だったように。

そして彼女を捜している。
今すぐ見付けて欲しいと願いながら、見付かる事を恐れている。
自分の存在を知られる事を、極端に恐れている。そしてまた、奥深くに隠れている。
其のような彼女を、また見付けようとしている。

季節はずれの羽音が聞こえて、僕は振り返る。

其れは雨音にも似た音で。
其れは雨音にも似た音で。

其れは通り雨。そして雨。
其れは通り雨。そして雨。

何時か晴れるまでの、青い雨。

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