■さ行
白浜パンデミック恐怖




「ホルモン屋台・店主のゾンビが臓物をブチ撒ける」

興味本位でB級小説に手を伸ばし、案の定、気分を悪くしたのでありました。
夏が終われど風鈴は揺れ、明日から新学期が始まるとは、まるで思えなかったのでした。

それが昨夜の出来事です。
目が覚めると本日が訪れ、私はパンを食べ、歯を磨き、制服に着替え、家を出たのです。
パンは少し焼きすぎだったかもしれません。しかし本日の予定には、あまり関係ありません。
今、最も大切なのは、予定通りのバスに乗り、少し早めに学校へ到着する事でありましょう。
何故なら私は図書委員で、特別に図書室の鍵を管理する立場だったからです。

バス停留所にはサラリーマン男性が二人と、女子高生が一人立っていました。
その三人が三人とも、大きな白いマスクを口に当て、静かに直立しているのでした。
新聞やテレビの情報番組がインフルエンザの恐怖を宣伝するようになって、早二週間。
大きな曲がり角から真っ赤なバスが見え、それは緩やかに此方に向かって走るのでした。

バスに乗る楽しみは、停車ボタンが点灯する様子を見る事と、運転席の真後に座る事。
どちらも私に関係ない部分で、勝手に世界が動いているのでありました。
私は只、傍観している気分に浸っている。無責任な傍観。
それが何より好きなのでした。

白浜君は、名前どおりの白い人です。
偽りなき白。
少し面倒くさそうに、本を整理します。
透き通るように白くて、洗い立てのシャツのような人です。
思えば私が密かに彼を目で追っているのも、バスに乗る楽しみと似ているかもしれません。

図書委員だからといって早めに登校しなければいけない決まりはありません。
本の貸し出しは放課後に限るし、返却だって、確認するのは放課後なんです。
それでも私が午前6時45分のバスで登校するのは、白浜君を傍観するという、
個人的な趣味に浸りたいが為なのでしょう。

白浜君は一学年下の図書委員です。
本が好きなワケでは無くて、勝手に押し付けられたのだそうです。
動物が好きだけど動物から好かれず、特に猫から好かれず、最近は犬派らしいのです。
ケーキが好きで中でもクラシック・ショコラが好きだけど、よく食べるのはモンブランです。
妹が一人いて、最近大ゲンカしたのだそうです。
そんな話を知っているのは、こうして毎日、朝早くから図書室に通っている故でありました。

コン・コン・ゴゴンと音が聞こえて振り返り、すぐにそれが咳だと気付きました。
背後の吊革に掴まっているサラリーマンが、小さな咳を二回、大きな咳を一回したのでした。
大きなマスクをしてましたから、感染の心配は少なくても、やはり気分は悪いものです。
それで私は顔を背けて、十秒間ほど息を止めてみせました。
私が無呼吸でも、バスは走るものですから。

乗客の九割が口にマスクを当てる、狭い空間です。
どうして私だけはインフルエンザに感染しないと、信じ続ける事が出来るでしょう。
誰もが等しく警戒し、それでも逃れられず、それに飲み込まれて往くのに。
生の希望も、死の絶望も、それから恋の予感だって、きっと似たようなものでしょう。

白浜君に会いたいのです。
まだ人影少ない学校で。誰も居ない図書室で。本を重ねて。
ああ私の中の細胞が、いよいよ私を飲み込んで、私の中を白浜君だらけにします。

コン・コン・ゴゴン。コン・ゴゴン。
コン・コン・ゴゴン。コン・ゴゴン。

昨日読んだB級小説は最低でしたが、何も読まないよりマシでした。
図書室で本の整理をしている時に、会話のタネになるはずですから。

コン・コン・ゴゴン。コン・ゴゴン。
コン・コン・ゴゴン。コン・ゴゴン。

運転手が咳をして、私は我に帰りました。
もしかすると、咳をしていないのは、私だけかもしれません。
バスの中は、もはやインフルエンザ菌が蔓延しているのかもしれませんでした。
誰もがインフルエンザに夢中なのでした。

同じように、もしかして。
皆が白浜君に夢中だったら、私はどうしようかと、一人で考えました。
もしも世界中が白浜君に、その真っ白な正しさに恋をしたら、私はどうしようかと。
きっと私は恋をして、皆と同じように恋をして、皆の中の一部になって。
ほんの一瞬、何か特別な事が起きないかと、願うでしょう。

「ホルモン屋台・店主のゾンビが臓物をブチ撒ける」

興味本位でB級小説に手を伸ばし、案の定、気分を悪くしたのでありました。
夏が終われど風鈴は揺れ、今日から新学期が始まるから、早く馴れてしまわなくっちゃ。

コン・コン・ゴゴン。コン・ゴゴン。
コン・コン・ゴゴン。コン・ゴゴン。

マスクなんか必要ないよ。
白浜君、もしも私がインフルエンザにかかったら。
ねぇ、何にもしてくれなくったって良いよ。
五分間だけ、お見舞いに来て欲しいな。

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