■た行
月とブラウン・シュガー




サイモン・シンのビッグバン宇宙論の上巻を読み終えた後で、
最後のページを閉じながら、少女が僕に言った台詞は、
主に、以下のような内容だった。

「君は世界を再構築する必要が在るのよ。

 世界は終わってなんか居ないし、
 其の先端に何が在るのかさえ解らない。 

 私達は予測と展望に基づいて此処まで来たけれど、
 私達が何処から生まれたのかさえ、本当は酷く曖昧なモノだわ」

僕の頭に飛び込んで来たのは、少女の台詞の最初の一行だけで、
残りの台詞は、強いて今、取り上げるほどの内容では無い。
解らない事に関して、此処で会話を掘り下げるなんて馬鹿げてる。

要するに、僕は世界を再構築する必要が在るのだ、と少女は言った。
其れだけが、今、此処から確認できる唯一の事実だ。

其れは至極尤もな意見で在り、
アイス・コーヒーが注がれたグラスに挿してあるストローに、
唇を付けて息を吸い込めば、琥珀色の液体が上昇するのと、
ほとんど同じ理屈だった。

其れがサイモン・シンだろうが、コペルニクスだろうが、ガリレオだろうが、
其れからユングだろうが、フロイトだろうが、ニーチェだろうが。

若しくはデカルトだろうが、ニュートンだろうが、ダーウィンだろうが、
ピカソだろうが、ゴッホだろうが、バッハだろうが、アマデウスだろうが。

おおよそ僕の頭に住む偉人達は、少女と同じ台詞を言う気がする。
世界を再構築する必要が在るのだ。

そして、其れを僕は否定したい、とも思った。

第一、僕はアイス・コーヒーが嫌いで在るから、
アイス・コーヒーの注がれたグラスにストローなど挿さない。
もしも挿し込まれて居たとして、唇を付けようとは思わない。
同じ理屈で、唇を付けたところで息を吸い込んだりはしない。

少女はミルク・ティーの注がれたカップに直接、唇を付けて、
カップを少しだけ傾けると、液体を口内に運んだ。
成程、其れは便利な方法だ。


「君はブラウン・シュガーに甘さを求めてるのよ。
 だけれどチリ・ペッパーに甘さを求めるのだとして、
 其れの何処が間違ってるのか、君は知りもしないんだわ」


少女は僕を一瞥すると、ビッグバン宇宙論の上巻を、
小さな鞄の奥に入れて、退屈そうにフォークを持ち上げた。
存分に冷えたペペロンチーノを、数回、フォークで巻きつけると、
其れを口に運ぶでも無く、何となく眺めた。

今、此処で重要な問題なのは、
グラスの形状でも無ければ、其れを口内に運ぶ方法でも無い。
其れからペペロンチーノは、少女が鑑賞する為に注文された訳でも無い。

僕の目の前に、僕の嫌いなアイス・コーヒーが存在する事が問題だ。
何故ならば、僕は其れを飲み干さなければならない。
ところが飲み干す理由が見当たらない。

生クリームを注いで、ガム・シロップを加える。
ストローで円を描くように掻き混ぜる。
溶けかけた氷が、音を鳴らす。

まるで別の物体が混ざり合う時、其れは酷く卑猥だ。
或る強い色は影響を与え、或る弱い色は影響を受け、
然も其れが以前から其のような物体で在ったかのように、存在する。

目の前に存在する、薄茶色の液体は、
間違いなくアイス・コーヒーと、生クリームと、ガム・シロップだ。

ところが其れ等は、互いに吸収され、互いに影響され、
全てが互いの一部となり、
再び、改めて、其れをアイス・コーヒーだと認識したに過ぎない。

宇宙の始まりだとか、宇宙の終わりだとかに関して、
今、此処で語り合うのは、酷く馬鹿らしい。

だけれど宇宙の始まりだとか、宇宙の終わりだとかに関して、
何より恐怖を抱いてるのは僕の方だし、少女の方かもしれない。
隣の席に座った、名前も知らぬ中年男性の方かもしれない。

僕はポケットから鉛筆を取り出すと、紙ナプキンに少女の似顔を描いた。
今、絵を描かなければいけない理由は無かったし、
今、少女を描かなければいけない理由も無かった。

少女は退屈そうにペペロンチーノを弄びながら、
僕の行動に目を向けた。

僕は何ひとつ生み出してないか居ないし、
そのくせ何かを死なせてしまったような罪悪感に、
もう何年間も苛まれて居る。

格好良い絵を描きたい。

格好良い事を言いたい。

素敵過ぎる言葉を羅列して、誰かを救いたい。

正直で素直な言葉を吐き出そうとする時、
其れ等は常に、相反するモノだ。
僕には何も出来ない事くらい、僕が一番よく知ってる。

どうしてすぐに格好付けてしまうのか。
どうしてすぐに良い絵画を描こうとしたり、
どうしてすぐに良い言葉を書こうとしたり、
どうしてすぐに少女に気に入られたいと願ったりするのか。

救われない少女を救おうとして、
結局、救う事なんか出来なくて、
部屋の隅で一人で苦しんでる僕を見るのが、
僕は好きなだけなんだ。


「君は世界を再構築する必要が在るのよ。

 宇宙は何処から始まって、何処で終わるのか解らないし、
 其れが何時まで続くのかなんて、酷く不安定なモノだわ。

 だけれど君は、何時も一人で宇宙に浮んでるみたいね」


何も無い場所から。

何も無い場所から、何かが生まれたとしたら、だよ。
全てには原因が在ったはずなんだ。

目も、耳も、鼻も、口も、手も無い。
何も無い空間の中で、僕の意識だけが、生きてるとしたらだよ。
其れでも僕は生きてる事になるのか。

眺めたくて目は生まれ、
聴きたくて耳は生まれ、
嗅ぎたくて鼻は生まれ、
話したくて口は生まれ、
触りたくて手は生まれ、

同じように感じてる意識が、同じように生まれ、
互いに混ざり合いたいだとか、混ざり合いたくないだとか、
同化したり、反発したり、乖離したりしながら、最期には爆発した。

宇宙が生まれた理由なんて、其れで充分なんだ。
僕の似顔は酷く似てないから、鼻で笑う事しか出来ないし、
其れでも僕が少女を描きたいと感じる理由ならば、笑う事は出来ない。

僕は、僕の嫌いなアイス・コーヒーを、飲む気になんてなれない。
世界の全てを知りたいなんて思わないし、全てを知る事なんて出来ない。

目の前に座る少女の感情など、一秒毎に変化する。
全てを理解する事なんて出来ない。
予測と展望に基づいて先に進むしか術は無いのだ。

大切な事は。

ああ、そうだ、僕は少女を描きたい。
ああ、そうだ、僕は少女を描きたい。

描きたくて目は生まれ、
描きたくて耳は生まれ、
描きたくて鼻は生まれ、
描きたくて口は生まれ、
描きたくて手は生まれ、

短い鉛筆だとか、汚れたキーボードだとかで、少女を形にする。
其れは花の咲かない種を埋めるように、悲しい事なのか。
其れは音の鳴らない歌を届けるように、虚しい事なのか。

少女は僕の描き上げた絵を眺めると
「こんなの私じゃないわよ」
と言って、笑った。

少女は僕のグラスに手を伸ばすと、
ストローを唇に付け、息を吸い込み、液体を口に運んだ。

「不味い」

全てを飲み干すと、少女は呟いた。

其れを眺めて、やっぱり僕も笑った。

窓から見えた空には、月が浮んで居た。

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