■た行
月に吼える。




彼女の部屋には大きな窓があった。
僕が其れを思い出すには、もうあまりにも遅すぎた。

夕陽が射し込む独りきりの部屋で、彼女は何を考えただろう?
雨の日と、雪の日と、晴れの日と、曇りの日に、其の大きな窓から、
彼女は何を眺めただろう?

例えば、其れは月か?

昨夜は彼女と二人で、月を眺めたかったんだ。
ところが僕ときたら、部屋で煙草を吸いながら朝を迎えた。
何の目的も達成されなかったという意味だよ。

彼女を誘い出そうとする気はあった。
お気に入りのスカジャンを来て、ニット帽を被って、
若干重ための鍵の束を、人差し指でクルクル回したりもした。
此の部屋から出る気はあったという訳だよ。

携帯電話を取り出して、ああ其の前に煙草を一本、なんて思ってね、
煙草を取り出そうとしたら、箱の中で一本折れてた訳だよ。
其れでもう、全てのやる気が無くなったという訳。

彼女は何をしてただろう?
昨夜、そう、此の朝が訪れる前の夜の事だよ。

星は見えたか?
其れから、其処から何が見えた?

巨大な建物だらけで、僕等が本当に見たかったモノってのは、
一体何だったのかを、見失っちまうよなぁ。

僕は塔が好きだった。
僕の住む町から東側に見える、大きな塔だよ。
君の住む町からだと、もしかしたら見えないかもしれないな。

其の塔は一直線に伸びて、まるでボストークのようだ。
初めて人を乗せて飛び立った宇宙船だよ。
ユーリ・ガガーリンが言ったろ?
地球は何色だったっけ。

此の町の創立百周年を記念して立てられたんだっけか。
そう、あの塔の話だよ。
照明が八箇所に設置されて居て、夜になると点滅する。
赤い照明だよ。

八箇所の赤い光が、ゆっくりと、ゆっくりと、
漆黒のような背景の中央で、点滅し続けて居るという訳だ。
今にも宇宙に飛び立とうと、其の時期を窺ってるようにも見えるよ。

呼吸。
そうだな、呼吸なんだ、あれは。
赤い光の呼吸のリズムに合わせて、僕は煙草を吸い込む。

また同じように、其れを吐き出したりもする。
吐き出された煙は天井まで昇る。
そして其れだけだ。

何処にも行けないな。
そうだよ、何処にも行けないんだよ、僕は。
僕は窓の外から見える、あの塔が好きだったのだけれど、
其れさえも今じゃ見えやしないんだ。

今、僕の部屋の窓から見える光の話をしたら、
きっと彼女は笑うだろうと思うよ。

コンビニ。
レンタルビデオ・ショップ。
其れから一際明るい光が、パチンコ屋。

なぁ、君はどう思う?
僕は此の部屋を出るべきだと思うかな。
其れとも今まで通り、此処で何かを話し続けるべきだろうか。

何にも見えやしないから、光を信じようとする。
光と闇と、どちらが素晴らしいかだなんて、馬鹿げた議題だよな。
呼び名が違うだけだ。
其れ等は常に其処に存在し、視点と共に器用に入れ替わるだけなんだ。

僕は今、何処に居ると思う?
其れを光だと呼ぶ人も居れば、闇だと呼ぶ人も居て、
其の実、何の事は無い、此処は光と闇が混ざり合った灰色な場所だ。

今よりも白く、または今よりも黒く、と願うだけで、
完全な白も、完全な黒も、ましてや完全な灰色さえも存在しない。
あのボストークのように聳え立つ塔が、見る場所を変えたら、
きっと何の変哲も無い、単なる細長い棒に見えるのと同じ理屈でね。

其処で僕は考えたんだ。
光は光を。
闇は闇を。
コペルニクスはコペルニクスを表すように考えられては居るが、
其の実、僕等は何ひとつさえも表してなんか居ないんじゃないかってね。

僕は僕を表すし、君は君を表しては居るけれど、
僕だとか君だとかを、僕だとか君だとかだと言える理由は何だ?
其れから彼女を彼女だと言い切れる理由は、一体何だったんだと思う?

髪が長い事か?髪が短い事か?
目が垂れ下がってる事だとか、目が釣り上がってる事だとか、
声の高さだとか、声の低さだとか、香水の匂いだとか、肌の色だとか、
鼻をすする癖だとか、文字の形だとか、五体満足な肉体だとか、
慈悲深い心だとか、緩い包容だとか、静かな寝息だとか、
そういった類のモノで僕は全てを判断して居るのか?

昨夜は彼女と二人で、月を眺めたかったんだ。
理由なんて無いよ。
だけれど全てが解るような気はしてたんだ。

もしも月が光り輝いて居るのだとしたら、其れは完全な嘘だ。
だけれど実際に光り輝いて居るんだよ。
光り輝く石コロなんだ。

光り輝く石コロを見て、僕は其れを、月だと判断する。

もしも路上に転がる石コロが光り輝くのを見付けたとしたら、
今度から僕は其の石コロを何と呼ぼうか。
そんな事を考えてた。

そうしたら朝が来て、また僕は煙草を吸い込んだという訳だ。

だから僕は彼女を誘い出す事をしなかった。
お気に入りのスカジャンを脱いで、ニット帽を放り投げて、
布団の上に寝転がって、天井を眺めて、彼女を思い出す事に専念した。

君はどんな顔だったっけ?
君はどんな声だったっけ?
君はどんな歩き方をして、どんな怒り方をしてたっけ?

君の星座は何だったっけ?
君の趣味は何だったっけ?
君の好きな食べ物は何で、好きな映画は何だったっけ?

君の温度はどんなだったっけ?
君の空気はどんなだったっけ?
君はどんな事で笑って、其れをどんな言葉で僕に話してたっけ?

嗚呼、僕の記憶は石コロみたいだよ。
気付かぬ内に蹴飛ばしてしまって、何処かに転がって、見失って、
後生大事に何度だって探してるんだ。

携帯電話を取り出して、ああ其の前に煙草を一本、なんて思ってね、
煙草を取り出そうとしたら、箱の中で一本折れてた訳だよ。
其れでもう、全てのやる気が無くなったという訳。

ところがもっと問題なのは、
彼女の携帯番号なんて、僕は知りもしないって事だよ。
彼女の携帯番号どころか、彼女に繋がる手段を知らないって事だよ。

月に吠える。

甘いお菓子を買って、彼女に会いに行こうと思った。
ところが彼女は既に其処には存在せず、香りすら存在せず、
または彼女が存在した事さえ、今となっては、酷く不明瞭だった。

なので僕は今、彼女との記憶の前に立ち尽くしてる。
其れは重い扉の中で今も浅く呼吸を繰り返してるかもしれないが、
扉を開く鍵は此処には無く、なので僕は今、彼女との記憶の前に立ち尽くして居る。

僕の中に何が、一体何が、彼女の何が、残ってるのかと、
先程から僕は、僕自身に問いかけて居るのだけれど、思い出せない。
思い出せないのでは無くて、思い出す気力が無いと言った方が、正しい。

僕が彼女の全てを思い出してしまったら、
僕は壊れたように泣き出してしまうかもしれないし、
彼女を求めて宙を彷徨うように手を伸ばしてしまうかもしれない。
ところが彼女は、もう居ないんだ。

救えた事に。
救えなかった事に。

救われた事に。
救われなかった事に。

口先ばかりの約束だとかを、交わしてしまう事だとかに。
指先ばかりの愛撫だとかを、交わしてしまう事だとかに。

彼女の部屋の大きな窓の、色褪せた木の枠は、十字架のようだった。

あの頃、僕は其れを、ずっと眺めてた。

きっと雪が降ってた。

君は何をしてた?

昨夜、そう、此の朝が訪れる前の夜の事だよ。

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