■た行
太陽が鳴いている。




ズドンッ!

――音が、渇いた空気の中を駆けて、衝突して、破裂する。
それがタガヒの投げた球がミットに収まった音だと知った時、既にタガヒは次の投球モーションに入っていた。
両腕を大きく振りかぶり、大きく胸を反らせ、細胞の末端まで糸を通すように、息を吸い込む。
やがてタガヒが片足を上げると、全てが連動するように動き始めた。スドンッ!

「よく飽きないな、アイツ」
ダイちゃんが首だけをアチラに向けて短く言ったので、僕は笑った。
せっかくの夏休みなのに、午前中から親父と野球の練習なんて、まったく馬鹿げている。
それでボクラは午前中から、野球の練習なんてしない代わりに、すべり台に登って、この退屈を弄んでいる。
とにかく暑い。太陽は斜め45度から、僕とダイちゃんを狙って正確に、高熱線を放射しているような気がする。
この公園には昔、水飲み場があった。今は無い。去年、取り壊された。

何処かのオバサンが「不衛生だ」と市に訴えたのが原因らしいけれど、まったく余計なお世話だと思う。
公園で遊ぶのはボクラだ。オバサンじゃない。余計な手を加えて、得意な顔をしないで欲しい。
まったく腹が立つ。暑い。暑い。「暑い! 何で水飲み場、無くなったんだよ! マジ許せねぇ!」
すべり台の頂上からダイちゃんは怒りを発した。残念ながらそれだけではダイちゃんの怒りは収まらず、
それは水飲み場を無くした何処かのオバサンから、公園のグラウンドを独占するタガヒへと向けられた。

「何でアイツの父ちゃん、仕事してないんだよ?」
「さぁ」と適当に返答しながら、僕は理由を知っていた。タガヒの父ちゃんは会社をクビになったのだ。
それで息子の「夏休みの午前中」という時間を費やして、タガヒの父ちゃんは、タガヒに野球を教えている。
構えたミットに、白球が、一直線に。
タガヒの球は素直すぎる。確かに速いけれど素直すぎて「俺にも打てそうだ」
先に言ったのはダイちゃんだった。
「どうかな、タガヒの球、速いから」
「速いだけで真っ直ぐじゃん。俺にも簡単に打てるね」
「そうかな」
「そうだね」
言ったきり、僕もダイちゃんもすべり台から降りようとはしなかった。タガヒの速球が駆ける。ズドンッ!――。

すべり台は楽で良い。普段より少し高い風景を眺める事が出来るし、降りようと思えば楽に降りられる。
何時だって降りるのは簡単なのだ。降りようとしないだけで。それは算数の宿題より、ずっと簡単で、「あのさ」
「ん?」
「夏休みの宿題、終わったか?」
「全部終わったよ。後は自由研究だけ」
「お前、自由研究、何やんの?」
「まだ決めてない」
「あ、そ」
下を覗く。近所の低学年の子供達が数人集まって、すべり台を見上げていた。
「何だよ、邪魔だな、アッチ行って遊べよ」と、ダイちゃんは右手を数回振って、低学年を追っ払った。
「此処は俺等の場所なんだよ」

ボクラの場所。別に誰に決められた訳でも無いけれど。
だけれど皆で遊ぶはずのグラウンドを、今、タガヒとタガヒの父ちゃんが独占しているように、
此処はボクラの場所だと宣言しても、誰も文句は言えないはずだった。足下のサッカーボールを弄ぶ。
「何時まで練習してんだよ、タガヒ」
「昼になるまで止めないよ、何時もそうだもん」
「よっぽど暇なんだな、タガヒの父ちゃん。ガム食うか?」
ダイちゃんは足の裏でサッカーボールを撫でながら、ポケットを漁り、二枚のガムを取り出した。

ズドンッ!

タガヒは中学になったら野球部に入るのだろうか。それから高校に入学して、甲子園でも目指すのだろうか。
タガヒは夏休みの宿題を終わらせているだろうか。自由研究は何にしたのだろう。僕は世界各地の童話と、
その作者を調べてみようと思っている。アンデルセン、イソップ、グリム兄弟。だけれど少しだけ面倒くさい。
それが将来、何の役に立つのか解らない。僕は将来、何になりたいのだろう。このまま、ずっと――。

「このまま、ずっと、すべり台の上にいる訳にはいかないのかな?」
「何だそれ」
ダイちゃんは口の中のガムを大きく膨らませながら、タガヒの投げる白球を眺めていた。
それは一直線に、素直すぎるほど一直線に、渇いた空気の中を駆けて、衝突して、破裂した。ズドンッ!
「絶対、俺なら打てると思うけどな」
「じゃあ、打ちに行ってみれば良いじゃん」
「馬鹿だな、俺はサッカーする為に生まれたんだよ」
「タガヒが占領してるんだから、サッカーなんて出来ないじゃん」

退屈だな。ボクラの居場所は何処だ?すべり台の上は、ボクラが望んだ場所か?
居心地は悪くない。遠くまで見渡す事が出来るし、少し偉くなった気分にだってなれる。降りるのも簡単だ。
だけれど此処からじゃ「届かないな」
「何が?」
「サッカーボール。タガヒにぶつけてやろうと思って」
「何で?」
「邪魔だからだよ。アイツがいると、俺達がサッカー出来ないじゃん」
言いながらダイちゃんは、足下のサッカーボールを拾い上げ、片手で投げる真似をした。
「見ろよ、此処じゃサッカーボール、蹴る事も出来ないんだぜ?」
「そりゃそうだ」僕は笑って、ダイちゃんの視線の先にいる、タガヒを眺めた。理由が必要なんだ。ボクラには。
「ちょっと男子! 何時まですべり台、独占してんの!」

声が聞こえて下を見ると、ミズカが立っていた。児童会副会長のミズカ。
「何だよ、うるせぇな」
「この子達、さっきからすべり台、使いたがってるでしょ!6年生にもなって、何やってんの?」
「何で俺等にだけ言うんだよ。じゃあグラウンド占領してるタガヒにも言えよ。俺等が使いたいんだから」
「うるさいなぁ! 男子は男子らしく家でゲームでもして遊びなさいよ! どうでもいいから早く降りな、ほら!」
「うるせぇ! ブス! 女副会長!」
「ああ、全然フェミニズムが解ってないね。馬鹿みたい」

理由が必要なんだ。此処を降りる理由だよ。
ボクラは別に、此処にいたかった訳じゃない。他に行きたい場所があった。だけれど行けない理由がある。
行けない理由を作っている。行けないと思い込んでいる。此処を降りたら、行けるかもしれないんだ。だから、
「降りようよ、ダイちゃん」
「嫌だよ! 何で俺が、ミズカの言う事、聞かなきゃなんないんだよ!」
「降りようよ、ダイちゃん」
「嫌だね! 悪いのはタガヒだろ! タガヒを先に追っ払えばいいじゃん!」
「男子ってホント馬鹿。自分の事しか考えてないんだから。じゃあ勝手すれば?」

ミズカが低学年の手を引いて、ブランコの方向へと歩いていく姿が見えた。
ミニスカートから、少しだけ日に焼けた、薄めた麦茶みたいな色の、細い足が見えた。
此処からじゃ見えない風景。上からじゃ見えない風景。僕は一人で笑った。「ねぇ、ダイちゃん」
「何だよ!?」苦虫を噛み潰したような表情で、ダイちゃんが振り向く。
「ミズカのスカート、めくってやろうか?」
「は!?何でだよ!?」
「腹立ったから」

理由が必要なんだ。此処を降りる理由だよ。
自分達の事しか考えられない、幼すぎるボクラが、此処を降りる理由だよ。
タガヒの投げた白球が、心音のように。その一球が、その一球が、鼓動のように、渇いた空気の中を駆ける。
ズドンッ! ズドンッ! 「ははっ!」

ダイちゃんは悪戯っぽい目をすると、銀色の板の上を、駆け出すようにすべり降りた。
「ダイちゃん! サッカーボール!」
「ミズカ! 覚悟しろよ!」
ダイちゃんは僕の声も聞かずに一直線にミズカに駆け寄ると、夏色のミニスカートめがけて手を伸ばした。
「馬鹿なんじゃないの、アンタ!」
いとも簡単に避けられたダイちゃんは、週一で空手を習っているミズカから、爽快な下段回し蹴りを食らった。
それを眺めて、申し訳ないけれど、僕は笑った。

遠くから、絶えず、タガヒが投げる白球の音が聞こえている。
それは渇いた空気の中を駆けて、素直すぎるほど一直線に、構えられたミットの中へ。その中央へ。
「ダイちゃん! タガヒの球、打ってやろうぜ!」
僕はサッカーボールを置き忘れたまま、すべり台を降りた。きっとダイちゃんも忘れていた。風が吹いていた。
空は青かった。雲が浮かんでいた。水飲み場は取り壊されたままだった。ボクラは笑っていた。

太陽が鳴いていた。
太陽が鳴いていた。
ボクラの短い夏休みが、まだ終わらないようにと、ほんの一瞬。

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