■た行
土星の恋人(The Last Love Letter)




親愛なる君へ

近頃、地球には雪が降り始めた。
僕の町にも雪が降り始めて、寒くなり始めた。
寒くなり始めると、地球人は、自分達を温めようとし始める。
こんな気持ち、土星人には解らないだろうか。

温かいから、寒くなる。
寒いから、温かくなる。

とても単純な道理のはずなのだけれど、理解するのは難しい。
それで僕は、こんな風にして、手紙を書いている。
終わり往く、今日の終わりに。
始まり来る、明日の始まりに。

幸せの正体に関して、考えた事はあるかい?

僕はあるよ。
きっと君だって、誰だって、考えた事くらいあるだろう。
それなのに今日まで誰一人として、幸せの正体を教えてくれた人はいないんだ。

幸せには、二種類しか存在しない。

日常の幸せと、非日常の幸せさ。
ありふれた幸せと、ありふれていない幸せと言い換える事も出来る。
何処にでもある幸せと、何処にでもある訳ではない幸せ、と言う事も出来る。

地球上には68億人が生きていて、その全ての命が平等だと説かれても、
実際はピンと来ないように、全ての幸せの価値は同じだけれど、正直どうにもピンと来ない。
何処かの国に、痩せ衰えて、棄てられて、見捨てられ往く命が在るように、
僕達には、一分、一秒、見捨てられ往く幸せがある。

家族や友人や恋人と、見知らぬ他人とを見比べて、命の平等を知る事は難しい。
同じ状況で苦しむならば、真っ先に手を伸ばすのは、心を許した誰かだろうから。
だから、部屋の窓を開けると良い風が吹いたって事と、宝くじで大金が当たったって事を、
同じ価値の幸せだと理解するのは、本当に難しいのだよ。

どうしたって僕達は、物珍しい、一瞬の、非日常の幸せを、貴重に感じるからさ。
幸せってモノを、ダイアモンドか何かと同じに考えてしまうんだ。
自分だけ手に入れたなら、それは幸せで大切なんだ。

君ならば、土星人ならば、こんな僕達を、どう思うだろう。
誰も知らない、数少ない、例えば希少な物品や、高価な物事や、立派な経験を、
誰かに自慢したくなる、こんな気持ち、君には解らないだろうか。

それでもね。
僕達は、弱く、儚い。
降り落ちる雪にように、すぐに消えてしまいそうだ。

近頃、地球には雪が降り始めた。
僕の町にも雪が降り始めて、寒くなり始めた。
寒くなり始めると、地球人は、自分達を温めようとし始める。
こんな気持ち、土星人には解らないだろうか。

僕達は、寄り添って、抱き合って、温め合う。
一瞬で終わってしまう幸せの、虚しさや、悲しさを知っているかい。
非日常の幸せってのは、大抵がそんなモンさ。
一瞬で終わってしまうからこそ、日常になれない、非日常の幸せなのだもの。
それで、何とか、手に入れた、日常の幸せってモンをね、大切に思うようになるのさ。

それを僕は、とても素晴らしい、地球人らしい感情だと、思っている。
誰でも持っている幸せ。だけれど僕だけの幸せ。君だけの幸せ。
日常の、何処にでもある、ありふれた、普通の幸せ。
そういうモンが、地球には沢山ある。

今朝のパンが美味かった。
洗濯物から、石鹸の優しい匂いがした。
川には綺麗な水が流れて、虫の音が聞こえていた。
夏の話。秋の話。冬の話。春が来て、また夏を思い出している。

新しい赤い傘を買って、雨が降る日を楽しみに待ち侘びる女の子が、何処かにいて、
新しいサッカーボールを買って、晴れる日を心待ちにしている男の子が、何処かにいる。

不景気の国では給料さえ未払いで、誰かは隣人を羨ましがっているが、
同じように隣人も、別の隣人を羨ましがっている。
資本主義経済の行く末なんて知らないけれど、僕達の幸せの行方は気になるよ。
それで灯火を守るように、この小さな当たり前の毎日を守ろうと、必死になっている。
嗚呼、その全てが、頭が変になるくらい、幸せなんだ。

地球は、そういう場所だったよ。
地球は、そういう場所だよ。

明日の今頃、僕は土星に着くよ。
明日の今頃、僕は此処から飛ぶのだよ。
明日の今頃、僕達はフタツでヒトツになるのだよ。

だからコレは、この手紙は、僕が君になる前の、最後の手紙だよ。
もしも自分の居場所を見失った時には、どうかこの手紙を思い出してくれ。
その時は、すっかり君になってしまった僕が、君に進むべき道を教えてあげるから。

D環、C環、B環、A環、F環、G環、E環。

土星の環。
綺麗な環だろ。
それを君にあげるよ。

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