■わ行
惑星のバロック




古い年が終わり、新しい年が始まる瞬間―

2007年1月1日。

僕は一枚の古びたレコードを手に取ると、
それを懐古主義的な回転盤の上に置き、静かに針を落とした。

ヨハン・セバスティアン・バッハ。
G線上のアリア。

年が明けたならば屠蘇を飲むべきであるが、
僕は(同じく懐古主義的な)ソファを立ち上がると、
湯を沸かし、ティー・カップとアール・グレイに手を伸ばした。

土星に浮ぶ9枚の環。
内側から順にD環、C環、B環、A環、F環、G環、E環。
F環とG環は、よじれた構造をしている。
環は、アリアの旋律に合わせるように、ゆっくりと動く。

薬缶が液体の沸騰を告げるように、甲高く鳴った。
ガス・コンロの火を止めたのは僕では無い。
僕の双子の弟だ。

弟は振り返ると、僕に「あけましておめでとう」と言った。
もっともそれは地球の言語、ましてや日本の言語ではなく、
正確に言えば「あけましておめでとう」という意味でも無かった。

弟は三歳の春の日に地球を離れ、衛星タイタンに住んで居る。
土星の衛星である。

年に一度、正月には必ず地球に戻り、
土星の土産を手に持って、こうして我が家に顔を出す。

土星の土産と言っても、大半は地球でも買えるモノだ。
地球の資源を供給する事で、土星人の生活は成り立って居る。
ニンテンドーDSを買って来た時には、流石に笑った。

何故、三歳の弟が土星に行かなければならなかったのか。
今もって理由は解らない。

米国政府が極秘裏に火星着陸計画を進めた頃に、
当時のソビエト連邦は、既に土星移住計画を立ち上げて居た。
僕が知り得る知識など、その程度だ。

年々、土星訛り(本来はロシア語である)が強くなっており、
最近では何を言ってるのか解らない時がある。

先程の「あけましておめでとう」という台詞にしても、
無理に文字に起こすなら「あくぁましとぅ、おむぇでところてんぬ」に近い。
語尾が「ところてんぬ」と聞こえるところに、土星人の愛嬌を感じる。

白く湯気を立たせる液体を注いで、僕達は紅茶を飲んだ。
弟はもう一杯の紅茶をティー・カップに注ぐと、
指を鳴らして「イリーナ」と言った。
音に応えるように、奥の部屋から、奇抜なカラー・リングの鋭角的な髪型に、
チグハグではあるが個性的すぎるファッションの、手足が長くて細い、色白の女の子が現れた。

イリーナ・ペトルーシュカ。
弟が地球に連れて来た、土星の女。
否、土星の女と表現するのは、少し違うかもしれない。

弟を含めたサトゥルヌス(土星移住者)達は、
土星移住者と名は付くものの、土星には住んで居ない。
サトゥルヌス達が住むのは、前述の通り、その大半が衛星タイタンだ。

原子番号7の元素に満たされた、大気の衛星、タイタン。
1655年3月25日にクリスティアーン・ホイヘンスが発見した巨大な衛星は、
豊潤な大気と雲に覆われており、地形や気象現象は地球によく似ていた。

弟を含めたサトゥルヌス達が移住したのは、
土星では無くてタイタンなのだから、厳密には土星人とは呼べない。
もっとも、イリーナを「土星の女」と表現する事に、
僕が違和感を感じた理由は、全くもって別の部分にあるのだけれど。

イリーナは白く細長い腕を伸ばし、
ティー・カップを受け取ると、それに唇を付けた。
それから緑色の瞳で僕を見ると、
唇を離しながら「G線上のアリアね」と、土星訛りで言った。

「あけましておめでとう、イリーナ」

僕が言うと、イリーナは弟と同じ土星訛りの、
流暢な日本語で「あくぁましとぅ、おむぇでところてんぬ」と言った。
そのままイリーナは、真っ赤なソファの上に腰掛けた。
先刻まで僕が腰掛けて居た、ソファだ。

イリーナは冬に咲く白いリンドウのような右腕を伸ばし、
テレ・ヴィジョンのリモコンを手に取ると、親指で電源を入れた。
ミニ・スカートから伸びた細長い足を組むと、何も言わずに画面を眺めた。

テレ・ビジョンから流れる笑い声は、
一瞬にして厳粛なるアリアの旋律を掻き消した。

大晦日に放映された格闘番組の影響を引き継いでか、
若手芸人達が格闘家に扮して、コントを展開してるのが見えた。
年明け早々、生放送で寒空の下に放り出された若手芸人達は、
上半身裸のトランクス一枚で四角いリングの上に集結し、熱湯を浴びた。

カツラを被ったボクサーに扮した若手芸人が、
熱湯を浴びる度に暴れるので、その度にカツラが空中に舞った。
何をすれば勝者と敗者に分かれるのかが、少し解りにくい競技(コント)だ。

イリーナは特に笑う事も無く画面を眺めて居るが、
この番組を選択したのはイリーナの趣向に寄るモノでは無く、
単に年明け早々では、このような番組しか放映されて居ないだけだろう。
弟はイリーナの隣に腰掛けると、ニンテンドーDSで遊び始めた。
サトゥルヌス達は自由だ。

そもそも正確に言えば、サトゥルヌスに正月の文化は無い。
土星が太陽を一周するのが一年であり、その日を正月と考えるならば、
それは地球時間で言うところの29年と167日と6.7時間に一回、となる。
彼等が正月を祝いに地球に帰るのは、単なる地球文化の名残だ。

「何やってんの?」

僕は弟に声をかける。

「スーパーマリコブラザーズ」

「スーパーマリコ?」

「そうだよ」

弟は熱心に小さな画面を見詰めては、指を動かして居る。
小さく漏れる音楽は、よく聞き覚えのある音楽だ。

「スーパーマリオブラザーズじゃなくて?」

「スーパーマリオブラザーズの裏ステージだよ」

「へぇ」

弟は器用に指を動かしながら、裏ステージの説明を始めた。
弟の説明によると、本来のスーパーマリオブラザーズは、
マリオがキノコ族のキノピオをステージ毎に救出しながら、
大魔王クッパに捕らわれたピーチ姫の元に向かうゲームである。

弟が手に入れたのは、 最近インターネットで流出した海賊版(無論、違法である)だ。
表面上は普通のスーパーマリオブラザーズであるが、
6-4でマイクに向かって「助けて!」と叫ぶと、裏ステージに移行する仕掛けになっている。

裏ステージの主人公はマリオの腹違いの妹・マリコであり、
キノピオではなく、過去にマリコが抱かれた男達を、マリコが救出していく。
マリコの、そっちの意味での兄弟達を、マリコ自身が救出していくという内容なのだ。
そもそも兄弟達がどうして捕らわれの身になっているのかは解らないが、金銭絡みか何かだろうか。

この裏ステージを、 主に土星のインターネット上では、
通称『スーパーマリコブラザーズ』と呼ぶらしい。
地球でも土星でも、人間がする事には、大差が無い。
説明を終えた頃、弟はルイージを救出した。

G線上のアリアは、回転を続けて居る。

何度も針を落とし直し、回転を止める事は無い。
しかしそれは先刻までの厳粛な空間に佇むアリアでは無く、
テレ・ヴィジョンから漏れる下品な雑音と、ゲーム音楽にまみれて、
それでも尚、自己の存在を主張するかのような、懸命なアリアだった。

「先に寝るよ」

僕は紅茶を飲み干すと、
ティー・カップをテーブルの上に置いたままで、
自分の部屋に向かって歩き始めた。

サトゥルヌス達は何も言わない。
大半が夜に包まれて居る彼等には、 就寝時に挨拶をするという習慣が無いのだ。
居間を出る瞬間、テレ・ヴィジョンを眺めた。
ソファに凭れるイリーナの綺麗な髪と、細い肩が見えた。

画面の中では、カツラボクサーが両手を振り上げて咆哮して居た。
優勝したのはカツラボクサーだった。
もっともカツラは千切れたモップのようになっており、それはもう、カツラとは呼べなかったが。




惑星。




宇宙は音楽で出来て居る、と言ったのは誰だったか。
忘れてしまった。
僕はベッドに潜り込み、真っ暗な部屋で、天井を見上げた。

何も見える訳が無い。
何かが見えるのだとしたら、天井の、その更に上だ。
僕は手を伸ばしてみたが、天井にさえ触れる事は出来なかった。

僕は自分の手を眺めた。
暗闇の中では、自分の手さえ、よく解らない。

僕の手の指は細長く、傷も付いてない。
昔から他人に「女のようだ」と言われるような指だ。
そう言われる事が、僕はあまり好きでは無い。
傷一つ付いてない指を、どうして誇る事が出来るだろうか?

それが厭で高校時代には、
自分から理由も無く壁を殴るような真似もしたが、
面白いほど簡単に、傷は綺麗に消えた。

何の自慢にもなりはしない。
誰かを傷付ければ、自分の手を汚す事が出来るだろうか。
汚れたまま、ずっと消えない傷を付ける事が出来るだろうか。
傷を求めてるなんて、馬鹿げてる。

細長く伸びた指も、
女の子のように澄んだ肌や唇も、
何一つ、僕自身を喜ばせるモノにはならない。

男同士であれば、相手に喜ばれるだろうか?

否、僕が求めてるモノは、男同士では無い。
僕は傷付きたいのだし、傷付いた僕を抱き締められたい。
傷一つ付いてない、柔らかな女性の肌に、抱き締められたいのだ。

僕は目を閉じた。
静寂の中で、僕の脳内に、アリアの旋律が流れ始めた。

もしもG弦が、これほどの世界を構築するならば。
与えられた狭小な領域に対しても、僕の可能性は皆無では無いのだ。
重力を突破して、土星に飛んだ弟のように。
Gの限界を越える事は出来る。

何が欲しいんだ?

よく解らないが、僕は温度が欲しい。
沸騰する熱いマグマのような温度が欲しい。
安寧する柔いブランケットのような温度が欲しい。

もしも惑星を飛び越えて、
最果ての最果てで、尚、温度を求めるならば、
それは馬鹿げた事だろうか?

眠りに墜ちる瞬間、その最期の瞬間まで、僕は温度が欲しいんだ。




「地球人は、皆、そんな感じ?」




声が聴こえた。
突然、僕の腹部に、何かが乗った。
目を開くと、僕の腹の上に、イリーナがまたがって居る。

「……どうしたの?」

「地球人は、皆、そんな感じ?」

イリーナは僕の質問には応えず、代わりに同じ質問を二度繰り返した。
僕はイリーナを見上げる体勢で、その質問の意味を反芻した。

「地球人は、皆、どんな感じ?」

「君みたいな感じ?」

「僕みたい?」

疑問符だらけで会話は進まないように見えたが、
イリーナが言わんとしてる事は理解できたような気がした。

「僕と弟は、似てない?」

僕が質問すると、イリーナはわざと悩んだような表情をした。
恐らくイリーナの返答は決まって居る。
僕と弟は似てない。

サトゥルヌスは重力の影響か、往々にして手足が長い。
色も白く、決して健康的な顔色とは言えない。

地球の(とりわけ日本の)街中を歩く若い子達のように、
焦げすぎた炭焼きのような肌のサトゥルヌスは存在しない。

「似てる人間、居るの?」

ところがイリーナの返答は、僕の予想とは若干違った。
人類が地域を隔て、国家を隔て、惑星を隔てた現在、
イリーナの言葉は、実に宇宙の核心を突いて居るような気がした。

「僕と弟は、似てない?」

「似てないね」

「双子なのに?」

「似てないね」

「地球と土星の違いかな」

僕が言うと、イリーナは小さく笑った。
イリーナが小さく動く度に、彼女の太股が、僕の上で揺れた。
ミニ・スカートから広げた足の付け根からは、彼女の白い下着が見えた。

それは今週の週刊少年ジャンプのような思春期的な淫猥さで、
僕の感情を刺激するには充分だった。

「……弟は?」

「寝たよ」

部屋は暗く、少しずつ目は馴れてきたが、
そこにイリーナが居ると認識する事だけで精一杯だった。

イリーナが僕に触れて居る部分。
例えば僕の腹部に当てられてる太股だとか、
僕の胸の上に置かれてる指先だとかが、彼女を認識させた。

重力が、僕に彼女を認識させて居る。
それは暗闇の中で存在を証明する事と同義だったし、
最初の宇宙の始まりとも、ほとんど同義であるように思われた。

イリーナは服を脱いだ。

彼女の影の動きから、それを知る事が出来た。
思わず僕は、カーテンに手を伸ばした。
新鮮な月光が彼女を照らした。

彼女が描く曲線は細く、青白い光と影を放って居た。
バロックの絵画のようだった。

緩やかに膨らんだ乳房が月光を反射させながら、
影は滑り込むように彼女の股間に流れて往った。

下着だけを脱がないイリーナは、淫靡だ。
彼女の下着に指を伸ばそうとすると、イリーナは脱いだばかりの衣服を、僕の顔の上に乗せた。
まるで目隠しされたような感覚の中で、僕はイリーナの匂いを嗅いだ。
それから彼女が僕の体の中央を、人差し指でゆっくりと、静かになぞって往くのを感じた。

首筋から胸を経て、腹の上を、彼女の指が通過して往く。
触れられる感覚が、彼女の存在を、僕に認識させて居る。

悲しい感覚が、一つ在る。
イリーナは、温度を感じさせなかった。
イリーナは、僕に温度を感じさせる事が、出来なかった。

イリーナ・ペトルーシュカ。
弟が地球に連れて来た、土星の女。
否、土星の女と表現するのは、少し違うかもしれない。

イリーナは、セクシュアル・アンドロイドだった。
土星移住者達の性欲を解消する為に開発された、セクサロイドだった。

移住当初の土星開発者は大半が男性だったので、
膨大な予算を注ぎ込んだセクサロイドの開発も、何ら不思議では無かった。
現在では一般居住者でも、廉価版が手頃な価格で手に入る。
セクサロイドと言っても、一般的に土星では、家政婦型アンドロイド全般を指す。
違法では無いので、地球に輸送する事も出来るし、地球人が購入する事も可能だ。

イリーナは、セクサロイドだ。
人間では無い。
話せるし、聴けるし、触れられるのに、人間では無いのだ。
途方も無い悲しみは静寂に近いが、泥濘を蠢く轟音にもよく似て居る。

イリーナの人差し指は、
冷たくも温かくも無い独特の感覚で、
僕の腹部を通り越し、硬くなった僕の陰部に触れた。

「……イリーナ」

覆われた衣服の隙間から、僕は声を伸ばした。
イリーナは(ほとんど人間と変わらない動きで)返事をする。

「何?」

「8889-SW-1088」

僕は隠喩のような記号を呟く。
イリーナは頷いたように小さく微笑むと、肉体を変形させた。

セクサロイドは。
イリーナは、相手の望むように、容姿を無数に変化させる。
その度に、性格だとか、声紋だとか、記憶まで、変化させる。

奇抜なカラー・リングの鋭角的な髪型に、
チグハグではあるが個性的すぎるファッションの、
手足が長くて細い、色白の女の子は、
弟が望んだイリーナの形に過ぎない。

弟にしてみれば、僕がイリーナを抱く事は、
僕のニンテンドーDSで、彼が遊ぶ事と大差が無いはずだった。
僕が呟いた隠喩のような暗号に合わせて、彼女は変化したけれど、
先刻まで此処に居たイリーナは、既に此処には居なかった。

僕が望んだイリーナは、長く伸びた黒髪を掻き分けて、
濡れたような大きな目で僕を眺めて居た。
もう何も言わないで欲しかった。


荘厳なる調が、アリアの調が、聴こえて居る。


それは僕の脳髄から、神経を経て、精巣まで。


イリーナは僕の性器を口に含むと、ゆっくりと動いた。
粘着質な音が、アリアの旋律に絡まって居る。
滴を垂らしながら、糸を引くように。

何が欲しいんだ?
よく解らないが、僕は温度が欲しい。
沸騰する熱いマグマのような温度が欲しい。
安寧する柔いブランケットのような温度が欲しい。

もしも惑星を飛び越えて、
最果ての最果てで、尚、温度を求めるならば、
それは馬鹿げた事だろうか?
眠りに墜ちる瞬間、その最期の瞬間まで、僕は温度が欲しいんだ。


「地球人は、皆、そんな感じ?」


僕のイリーナが、上目遣いのまま、そう言った。

瞬間、僕は何故か、泣いてしまった。

嗚呼、僕のイリーナ。


触れられないモノだとか、
触れられなくなってしまったモノに、
どうしても触れたいんだ。

せめて一度だけ。

もう一度だけ。

月光さえ透き通る硝子のような肌のイリーナは、
黒髪を揺らしながら、先程よりも早く首を動かした。

もしも温度など存在しないとしてもだよ、イリーナ。
僕は君の肌に触れたいんだよ。

僕はイリーナの頭を撫でると、
その顔を上げて、口を離し、彼女の動きを止めた。

それから起き上がり、彼女を抱き締めた。
だけれどそれは自分自身を抱き締める事にも、酷く似てる。

下着越しに触れた彼女の性器は乾いたままだったけれど、
僕の一言で、彼女は簡単に濡れるように構築されて居る。

下着を脱がせた裸のイリーナは、恥らうように僕を迎え入れた。
演技ではない。
そのように構築されて居るだけだ。

土星に浮ぶ9枚の環。
内側から順にD環、C環、B環、A環、F環、G環、E環。
F環とG環は、よじれた構造をしている。
環は、アリアの旋律に合わせるように、ゆっくりと動く。

イリーナ。
僕が地球人だとするならば、君は何だ。
土星生まれのサトゥルヌスか。
ロシア人をモチーフに作られた人形か。
それとも単なる、変幻自在のセクサロイドか。

四つん這いになったイリーナを後から突き上げても、
恐らく僕は満たされないだろう。
乱暴に抱き締めても。

ならば是は、自慰行為と何が違うのか。

イリーナの頬は高潮し、汗を流して居る。
そのように構築されたから、そのように行動する。
喘ぐような甲高い声を漏らしながら、イリーナが言った。

「今から言う事を、よく聞いてね」

吐息とは違う、ほとんど絶叫のような声の中では、
彼女が何を言ってるかなんて解らなかった。

只、到達する為に到達する。

何処に?

絶頂に。

その為だけに、今も無様に腰を振り続けて居る。

もしも惑星を飛び越えて、
最果ての最果てで、尚、温度を求めるならば、
それは馬鹿げた事だろうか?

「もしも君が私を誰に重ねて眺めようが、
 私は私なのよ。

 同じ人間なんて、何処にも居ないのよ。
 君が誰にも似てないように。

 宇宙に浮ぶ名も無い惑星を見付けたなら、
 君が自分の力で名前を決めなさい。
 それは君だけの惑星だわ。

 もしも私が誰にでも変化できるとしても、
 私は私から離れる事は出来ないのよ。
 私は私なんだもの。

 ねぇ、私の名前は何?」

イリーナは温度も無い温度の中で、
高密度の絵画の中のマグマのような温度の中で、
ほとんど絶叫に近い喘ぎ声の中で、恐らくそのような事を言った。

「イリーナ」

イリーナ。

イリーナ。

イリーナ。

彼女の名前はイリーナだ。

嗚呼、熱い。

今にも何かが、沸いて噴き出しそうだ。


僕は彼女の名前を、何度も呼んだ。

何故だか泣きながら呼んだ。

零れ落ちるように。

果てた。




「温度を求めてるんだよ、イリーナ」




倒れ込んだ僕の頭を、彼女は優しく撫でた。

「地球人は、皆、そんな感じ?」

「ははっ」

彼女に抱き締められながら、僕は短く笑った。


地球から土星を経て、冥王星まで。

もしかしたら、その先まで。

僕は今も地球に留まったままだけれど、

何時か僕も、此処を離れる日が来るのだろうか。


「サトゥルヌス達は、情熱的なのよ」

「そうなの?」

「そうよ、冷めてるように見られるけどね」


僕の耳たぶに触れながら、イリーナは楽しそうに笑った。


「温度を感じさせないモノほど、温度を溜め込んで居るモノよ」

「うん」

「何処にも出す事が出来なくてね、ひたすら出口を探してるの」

「うん」

「溜め込んだ温度が一気に爆発する時に、宇宙が生まれるのよ」

「……ビッグ・バン?」

「さぁね」


イリーナは悪戯っぽく笑うと、僕に唇付けをした。

枕元に散らばったイリーナの衣服から、良い匂いがした。
それは紛れも無く、彼女自身の匂いだった。
彼女の温度の中で、僕は眠った。




旋律が、聴こえる。




翌朝、目が覚めると、ベッドには誰も居なかった。
居間からは慌しい朝の音が聴こえた。
弟が荷物をまとめて居る。

「もう帰るの?」

「ああ、すぐ仕事だからね」

鞄のシッパーを閉めながら、弟が言った。
土星に正月休みの風習は無いのだから、当然の事だ。
弟は短い有給休暇を使って、地球に旅行をしに来たに過ぎない。

「……イリーナは?」

「二階に居るよ」

弟は地球で買い貯めた土産を、鞄に詰め込むのに苦労して居る。
特に場所を取るのは詰め合わせの菓子や食品関係で、
中でもドレッシングは場所を取る。

「最近、土星では青じそドレッシングが流行ってるんだ」
などと、別に誰も訊いてない土星の流行情報まで披露しながら、
品物を変え、場所を変え、延々とドレッシングを鞄に詰め込んで居る。

「兄貴、DS使ってる?」

「DS?」

「使ってる?」

「ああ、あんまり使ってないね」

弟はニンテンドーDSを片手に持ちながら、
不敵な笑みを浮かべた。
何を言わんとしてるのかは、何となく解る。

元々、弟が土星土産に買ってきたモノだから、
弟が所有権を主張しても、別に構わない。
実際に普段、使ってない訳だから。

「じゃあ、貰って帰るわ」

「別に良いけど」

「スーパーマリコ、極めとくわ」

「スーパーマリコ、極めますか」

弟は一通りの荷物をまとめると「あ、パスポート」と言った。
それから指を鳴らした。

「パスポート、持ってきて」

弟が呼ぶと、女の子が階段を降りて来た。

黒い網目状のニット・シャツに、
同じく黒いロング・スカートを履いた女の子が、
栗色のボブ・カットの髪を小さく揺らしながら、降りてきた。

恐らく、それが本日のイリーナだった。
それは昨夜とはまるで別の容姿のイリーナだったし、
本日の弟の気分を最適に表現したイリーナだ、とも言えた。

「おはよう」

「おはよ!」

イリーナは微笑んだ。
それは昨夜のイリーナに比べると、快活な印象を受ける声だった。
だけれど、僕は既に、知って居た。

僕は知って居た。

彼女の名前は、イリーナだ。

どれだけ容姿を変え、性格を変え、言語を変えたとしても。

イリーナに触れたい、と思った。
頭を撫で、手を繋ぎ、唇付けをしたい、と思った。
だけれど僕にとってイリーナは、もうそれとは遠い場所に居た。

彼女は単なるセクサロイドでも無ければ、
弟が欲しがるニンテンドーDSと同義の存在でも無かった。

彼女は随分と遠く、
具体的に言うならば地球と土星の距離くらい遠く、
それでも寂しさは感じなかった。
僕は彼女の名前を呼ぶ事が出来るし、同じ宇宙に存在する。

ほんの小さく呟くように、
もう一度だけ「おはよう」と言った。

イリーナの、小さな背中が見えた。
冬に咲く白いリンドウのように、伸びた腕も。

「帰り道、気を付けろよ」

家の前で、車に乗り込んだ弟とイリーナに、僕は声をかけた。
弟は呑気に「地球の信号には馴れてないから、気を付ける」と言った。
イリーナは何も言わずに、助手席から、僕を見て居た。
僕等は何も言わなかった。

エンジン音が響いて、車は走り出した。
白煙を上げながら一直線に進む。
ボストーク8号のように。

宇宙は音楽で出来て居る、と言ったのは誰だったか。
忘れてしまった。
頭上を見上げると青空が広がって居て、星は見えなかった。
虚空に向けて、僕は手を伸ばした。








不意に、何かが動いた。








視界の隅に、何かが見える。
視界の隅で、何かが動いてるのが見える。
僕の家の二階の窓だ。

僕は急いで家の中に戻ると、階段を駆け登った。
二階の窓で動いてたのは、何だった?
間違いなく、二階の窓だ。

階段を駆け登り、扉の前に立ち、大きく息を吸う。
扉を、開ける。




「おかえり」




其処には、昨夜と同じ、黒髪のイリーナが居た。

「え?」

「早かったのね、お見送り」

「え?」

イリーナは僕を見ると、また楽しそうに笑った。
昨夜の彼女と同じように、大きな目を細めて悪戯のように笑うと、
僕に近付いて、僕の頬に優しく触れた。

「残る事にしたのよ、地球に」

「え?」

「丁度、新しいのに買い換えようとしてたしね」

「え?」

「先刻、彼と一緒に車に乗ってたのは、新しい女の子よ」

付け加えるように「今朝、届いたばかりだけどね」と言った。
先程、弟と一緒に帰って行ったのは、イリーナでは無かったのだ。
恐らく弟は、土星で新しいセクサロイドを購入して居たのだ。

先刻、弟が唐突にニンテンドーDSを欲しがった理由も、
何となく解った気がした。
理由はどうあれ、イリーナは此処に居る。


「此処に住むの?」

「住むよ、駄目?」

「駄目じゃない」


僕はイリーナに触れ、
頭を撫で、手を繋ぎ、唇付けをした。
イリーナの体温が、僕の中に流れるように、伝わった。

体温?


「さて、たった今から、二人だけの生活よ」


唇を離すと、イリーナは僕の顔を見詰めながら笑った。


「まず最初に、何をしようか?」

「そうだな、何をしようか」

「実はもう決めてるの」


彼女が指を鳴らした。

懐古主義的な回転盤が始動した。


惑星に向かう隕石のように、

回転盤の上に自動的に針が落ちると、

静寂の中から、悠然と、音楽が流れ始めた。


そしてまた、G線上のアリアが、流れた。

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