■や行
酔夏




朝九時に目を覚まして、寺で出かけた。

僕の母の実家は寺なので、毎年この季節になると親戚が集まる。
札幌から車で一時間も走ると、寂びた風景が広がっている。
山奥というか、田舎というか、携帯の電波も届かないような土地が延々と続いている。

少しずつコンビニ・エンスストアを見かけなくなり、少しずつ信号機を見かけなくなり、
その代わりに、何年前の広告か解らないような、色あせたポスターを貼った個人商店を見かけるようになり、
ひたすらに延々と続く一本道を見かけるようになる。

実に夏らしい肌触りの温度だ。
車の窓を開けて煙草を吸うと、林の隙間から小川が見えた。
水色と緑色と淡い茶色のコントラストの中に、時おり見える小さな向日葵だとか、
車道に面して売られている採れ立てのとうもろこしだとか、それから誰が買うのかよく解らない自動販売機だとか。
きっと女の子が見たら「トトロが出てきそう!」などと言うに違いない。

僕の母は、こんな土地で育った。
山奥の寺で生まれた世間知らずの田舎娘は、家族の猛烈な反対に遭いながら、
半ば駆け落ち気味に家を出て、父と札幌で暮らした。
今の僕よりもずっとずっと若い時に、姉や僕を産んで育てた。

母が父と結婚して、一番苦労した事は何だったか。
周囲の反対に遭いながら、自分達で家財を買い集めた事でも、小さなアパートで何とか生活を始めた事でもなくて、
父が誰にでも優しくて、特に女性に言い寄られた時には、ちゃんと断りきれない性格だった事だ、と言った。

「まぁ、据え膳食わぬは男の恥、みたいな時代だったけどね」

その母の台詞を聞いて、僕は大笑いした。
それは決して時代のせいとも言い切れないけれど、父らしくて実に良かった。
何かの機会に、昔の父の写真を見た事があったのだけれど、
確かに若い頃の父は、若い頃の石原裕次郎にちょっとだけ似てる。

それで誰にでも優しけりゃ、そりゃ反則だ。
そんな父がわざわざ山奥の寺の田舎娘に恋をして、反対を押し切ってまで札幌に連れ出した訳だから、
そして健全に幸福な家庭を築いた訳だから、人生とはたくましく、面白い。

僕が煙草を吸い終えると、周囲は太陽と空と緑に囲まれた山だらけになり、
いよいよトトロが出てきても可笑しくない雰囲気になってきた。
昔は石炭で栄えたが、今では過疎化が進んだ村には、もう若者はほとんど居ない。
只、溢れるように花だけが咲いて居る。
細くスロープするように伸びる車道に、木で出来た小さな看板が見えて、左折すると寺が見えた。

車を降りると蒸し暑い。
足下には蟻が歩いて居り、目前には蜂が飛んで居る。
近くの廃屋には蜘蛛の巣が張って居り、何故か無人のショベルカーが止まって居る。

車から荷物を降ろして、寺を見る。
寺には冬も似合うが、やっぱり夏も似合う。
寺に入ると、すでに親族一同が集まっており、女性と子供は昼食の準備をして居る。
「こんにちは」だとか「ひさしぶり」だとかの挨拶もそこそこに、本堂からお経が聞こえ始めた。
あ、もうそんな時間か。

そっと襖を開けて本堂に入ると、そこそこ多くの檀家の方達も集まり、手を合わせて居た。
僕は別に仏教信者でも無いし、かといってキリスト教信者でもないが、
やはり宗教的な何かに関わる時は、少しだけおごそかな気分になる。

盆供養のお経は長い。
一時間ほどの時間、お経を聴きっぱなしになる。
折角なのでこの時間を瞑想に費やしてみようと思い、僕は目を閉じて無の境地への到達を試みた。
もしかしたら、うっかり悟りを開けるかもしれない。
不意に立ち上がって「天上天下唯我独尊」とか言い出すかもしれない。

無の境地に到達する為には、雑念を払わなければならない。
というのは素人の考えだ。
雑念と仲良くなるのが、無になるコツだ。
雑念を払おうと必死になる事こそが、雑念なのだ。

などと、素人が無の境地について偉そうに考える。

あ、寺なのに立派なスピーカーが置いてある、だとか
流石に坊さんは良い声してるよな、だとか
余計な事ばかり考えてる内に、勝手に一時間くらい経つのだ。

結局、無の境地に到達する間もなく、お経は終わった。
僕が到達した悟りは「坊さんは声が良い」くらいのモノだった。
悟りでも何でもないが、まぁ、しかし真実だ。

盆供養が終わると、昼食の時間だ。
本当であれば、昔はこの後に、夕方から行われる灯篭流しの準備があったのだが、
過疎化が進んだ村では檀家の数も激減してしまい、数年前に、遂に灯篭流しの習慣も無くなってしまった。
なので今から先の時間は、親戚同士の交流に当てられる。

何卓も並べられた長いテーブルの上には、
寺らしい食事と、ビールだとか、ウーロン茶だとか、灰皿だとかが並べられている。
各自が適当に座り、食事が始まる。
久し振りに会った親戚とは、ここで初めてゆっくり会話をする。
先程の、声の良い坊さんが皆に声をかけて回って居る。

この声の良い坊さんは、僕の従兄弟の兄ちゃんだ。
兄ちゃんと言っても、それなりに歳は離れているが、恰幅が良く、人の面倒見が良く、皆を盛り上げるタイプだ。
豪快に笑って酒を飲む姿など、お経を唱えてる時とは別人だ。

兄ちゃんは高校球児で、甲子園にも出場した事がある。
僕の幼い記憶に、ブラウン管の中で兄ちゃんが甲子園で二塁打を打った場面と、
そこでテレビの解説者が言った台詞が、今でも焼き付いて居る。

「彼は高校を卒業したら実家のお寺を継ぐ事が決まっており……」

夏になってテレビで甲子園を観ると、この場面を思い出す。
兄ちゃんは坊さんなのに、豪快に酒を飲むし、美味そうに煙草も吸う。
あの勢いだと、多分、余裕で肉とかも食ってる気がする。

数年前に別の親戚が結婚した時に、隣でずっと一緒に話してたのだけれど、
兄ちゃんがスーツを着てるのが面白かった。
だけど手首には数珠みたいなブレスレットをしてるのが面白かった。
教会のチャペルで、賛美歌を歌った時が一番面白かった。

「おい、聴いとけよ。 俺、賛美歌を歌えるんだ」

などと始まる前に言ってたので、ちょっと期待してたら本当に見事に歌い上げた。
普通、結婚式で賛美歌を歌う事になっても、普通の人でもあそこまで完璧には歌わない。
なまじ良い声なモンだから、チャペルによく響く。
そもそも坊主って賛美歌を歌っても良いんだろうか。
アレにはそうとう笑った。

ある程度の食事が済むと、自由時間のような雰囲気になる。
自由時間と言っても、それは子供達に通じる謳い文句というだけで、大人達は後片付けなどで働く訳だが。
僕は寺を出ると、盆供養の為に立てられた、数本の旗をはずしに行った。

暑い。
風に飛ばされないようにか、棒がロープで必要以上に固く結ばれて居る。
ロープをはずす作業だけで汗が出てくる。暑い。
一本をはずすと、もう一本。まだ九本くらいある。
最後の一本は、少し離れた場所にポツンと立って居る。

少し歩く。
しかし本当に何もない。砂利道も真っ直ぐだ。細い車道にはほとんど車も通らない。
しゃがんでロープをはずそうと必死になっていると、耳元を聞き覚えのある羽音が通り過ぎた。そしてまた戻ってくる。

蜂だ!

旗の長い棒を支えながらロープをはずしてるモンだから、一歩も動けない。
今、手を話したら旗が変な感じで倒れてしまう。蜂はブンブンと獰猛な羽音を立てながら、旋回して居る。
ロープ!ロープめ!などと、この緊急事態をロープのせいにしながら、冷静に焦る。
どうでも良いが田舎の蜂は巨大だ。

何とかロープが解けると、僕は至って冷静なフリをしながら、その場を離れた。
旗を風に揺らせながら、長い棒を抱えて田舎道を歩いていると、本当にトトロが出てきそうだな、と思った。
全ての後片付けを終えると、僕は一人で本堂に戻った。
誰も居ない本堂は、静かだ。

何十年前から使ってるのかも解らないような、青い扇風機のスイッチを入れると、元気良く首を振った。
扇風機と僕だけが、世界に存在してるような気がする。
何となく、手を合わせたい気分になったから、そうした。
遠くから親戚の笑い声が聞こえた。

何故か『ムー』という不思議雑誌が置いてある。
一人で寝そべって読んだ。

「キリストの聖痕体現者は、実は超能力者だった!」

という記事を、熱心に読んだ。
扇風機が心地よくて、寝てしまいそうになる。
人類は皆、超能力を使えるかもしれない、などと考える。

兄ちゃんが本堂に入ってきて「おい!ビール飲むぞ!ビール!」と言った。
僕はビールはあまり好きではないので、普段からほとんど飲まない。
居酒屋などで勝手に「とりあえず全員ビール!」とか注文されたら「あ、ちょっと待って」と、
その場の空気を悪くしてまでも一人だけ別の注文をするくらい、普段からほとんど飲まない。

なので「あ、ごめん、ビールは飲まないんだ」と言った。
すると「芋焼酎なら飲むか?」と言った。
芋焼酎なら飲むに決まってる。
むしろ大好きだ。

坊さん達の飲み方は豪快なのか。
巨大なグラスに、波々と、芋焼酎がロックで注がれる。
あ、こりゃ酔うな、と思う。

兄ちゃんは豪快に笑い、何かを話して居る。
皆が笑い、僕も笑う。

僕は普段、特にこういう場では無口なので、割と黙って話を聴いて居る。
僕は「自分が話さなければ、この場はどうなるんだ」という場面では、必要以上に妙に気を使ってしまい、
要らん事まで必死になって話してしまう傾向があるのだけれど、
他に話をしてくれる人が居る場面では、必要以上に無口なのだ。
僕が笑って話を聴いていると、従兄弟の姉ちゃんが言った。

「アンタ、笑うようになったよね」

「アンタが今日、何回しゃべったか、メモしておくわ」

僕は苦笑したが、悪い気分ではなかった。
僕は気の知れた友人同士とは、普段でもよくしゃべるし、よく笑ってると思う。
くだらない冗談だって言うし、もう少し黙れというくらいの場面だってあるかもしれない。
それでもやっぱり僕が現在、笑ってる事だとか、ポツリポツリと何かを話す事だとかに、気付いて貰える事は嬉しい。

兄ちゃんは子供の頃の玩具の事だとか、 友人のG.I.ジョーが羨ましかった事だとか、
近所の婆さんが個人商店を閉めた事だとか、隣村にはスーパー・マーケットが出来たから都会だ、だとか 、
割とどうでも良いような事を色々と話した。
それから、僕が無口だという意見に対して、僕を見て言った。

「いや、俺はコイツと、何でも話せるよ、なぁ?」

そしてやっぱり豪快に笑うので、僕も笑った。





グラスの氷が、コロンと鳴った。





寺を出る頃には、夕方だった。

親戚に見送られて、僕等は寺を出た。

見えなくなるまで手を振って居る。


色んな事が、そうだ、色んな事が。

変化しては安定して居る、色んな事が。


ひたすらに延々と続く一本道は見かけなくなり。

色あせたポスターを貼った個人商店は見かけなくなり。

少しずつ信号機を見かけるようになり。

少しずつコンビニ・エンスストアを見かけるようになるだろう。

そのようにして、僕は、僕の町に戻るだろう。


今日の夜には、東京から帰ってきた後輩と、半年振りに再会する。

家に着いたら少し寝て、半年分の土産話を聴きに行こう。

彼が進んでる夢の、その途中の話だとか

最近はどんな音楽を聴いてるのかだとか

それから、そうだな。

たまに読む『ムー』は、中々面白い、という話でも。



ペットボトルの水を、ゴクリと飲んだ。



そして酔いは覚めた。

inserted by FC2 system